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異聞・本能寺の変(下) [ぴんぼけ]

異聞・本能寺の変(下) 光秀を孤立無援にした「信長」の人望…信賞必罰・強権の裏で民衆・家臣に心砕いていた

2014.7.27 07:00 関西歴史事件簿
羽柴秀吉の本陣

羽柴秀吉の本陣

 天正10(1582)年6月2日、京都・本能寺で織田信長を討った明智光秀だったが、その後、あてにしていた有力武将の援軍もなく、天王山のふも とで毛利軍と和解後、あっという間に引き返してきた羽柴秀吉と戦う。一見やることなすことが強権的で、“戦国時代のパワハラ王”ともいえる信長だっただけ に反対派も相当多かったはず。それなのに、なぜ光秀は無視されてしまったのか。やはり光秀に人望がなかったのか。それとも…。

 

支持率が高い信長

 実力を第一とし、はっきりした信賞必罰をとる信長は、力がある家臣は足軽でも引き揚げるが、失敗するとたまに暴力に訴えることもあった。このため、家臣との確執も絶えず、松永久秀や荒木村重ら数多くの裏切りにあっている。

 それでも力で押さえ込むと一族をも皆殺しにしてしまうなど、恐怖を背景に従える心理的効果は絶大だった。一方、占領したばかりの地でむやみな課税を禁止する命を出して悪い印象を払拭するなど、民衆の支持率には相当に気を配っていたという。

 また仏教や朝廷など旧態依然とした勢力を徹底的に嫌い、新しいものを好んだことから、自分あるいは家臣が治める城下町にいた特権を持つ商工業者組合を解散させ、新興業者に自由な商売を奨励する新しい経済政策をとったことで人気を決定的にした。

 この結果、家臣からは神や仏以上に畏れられ、民衆からはこれまでの閉塞感漂う政治、経済を一掃した革新政治家のイメージを植え付けるのに成功。“信長内閣”の支持率は相当に高かったともいわれている。

 こうなると信長を討った光秀は動機はどうあれ、家臣から神仏以上にあがめられていた人を殺害した謀反人で、国民にすれば良き宰相を追い落とした極悪人である。

 光秀に加担した場合も、また謀反人、極悪人となることが十分に予想されたことから、加勢を見合わせたという雰囲気が強いようにも思える。

 

元親は…

 信長の四国侵攻直前、光秀の重臣に信長への恭順の意を示した書状を送っていた長宗我部元親も、どこまで光秀を助けるつもりだったのか。

 元親は「一両具足」と呼ばれる、平時は農作業をしながら、いざというときには作業を途中で放って駆けつける軍事制度を確立している。武士だけでは数が足りず、純粋な農民は動員に時間がかかるという、戦国大名が抱える問題を一気に解決した制度といえる。

 だが、信長や秀吉が確立したとされる、世の中の“あふれ者”を金銭で雇って兵に仕立てる常備軍制度は組織力で一領具足に劣るものの、動員速度ははるかに速い。

 このため、豊富な財力を武器に敵より圧倒的な兵力を用意すれば組織力も高まり、実力次第では、アルバイトから社員、幹部などといった出世も夢ではないだけに、必至で働くことになる。

 本能寺より1カ月前の5月に信長は四国侵攻を決めたとき、このまますぐに攻められては、いくら一領具足の動員力が優れているとはいえ、間に合わないとでも思ったのではないだろうか。

 信長との戦も辞さなかった元親が突然に信長への恭順を表した書状を光秀方へ送ったのも、時間稼ぎ的な意味合いもあったとも考えられる。

 その証拠に、本能寺の4カ月後の10月に行われた讃岐・十河(そごう)城攻略戦で元親は3万6千の兵を動員している。しかも、翌年の賤ヶ岳の戦いで秀吉と争う柴田勝家と手を結んでいるところをみると、元親の気力も兵力もいっこうに衰えていない。

 四国攻めのため、四国の対岸の摂津と和泉にいた織田信孝軍は本能寺の変で撤退し、信長の力を背に元親と戦っていた三好勢も逃げる。これで助かった元親は「もう光秀の役割は終わった」と冷徹な目で見ていたのかもしれない。

 

孤独の死

 本能寺の変の翌日の夜に信長の死を知った秀吉は備中高松城を介してにらみ合っていた毛利軍と講和を結ぶと6日に出発し、姫路城に到着したのが7日で、9日朝まで休養のために滞在したという。

 秀吉が京都へ引き返していることを光秀が知ったのは8日。近江をほぼ平定して、安土城で朝廷の勅使らと祝賀会を催した後、居城・坂本城に戻ったときともいわれている。

 あまりの秀吉軍の動きの早さに慌てた光秀は準備もそこそこに、とりあえずありったけの兵で天王山のふもとに戦場を設定して待つことにした。

 ここは桂川、宇治川、木津川が合流して淀川へと連なる狭隘(きょうあい)の地。秀吉軍の4万に対して1万6千の明智軍。数の上ではすでに勝負にならないため、光秀は狭い場所で各個撃破する目算だった。

 12日、現地に到着した秀吉軍は小泉川(現・円明寺川)を境に光秀とにらみ合うが、やはり多勢に無勢だった。13日、淀川から側面をつかれた光秀軍は総崩れとなる。

 光秀は戦場近くの勝竜寺城まで退却して態勢を整えようとしたが、城が手狭ですべて収容できないことから、ほとんどの兵は逃げてしまう。

 この散々な結果に、光秀は城の北門からひそかに脱出すると、数人の家臣ともに近江・坂本を目指すも、途中の京・小栗栖の竹やぶで土民に竹やりに刺され命を落とす。

 裏切り、裏切られてが当たり前の戦国の世にふさわしい光秀の死だった。

(園田和洋)

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以上だ税。

固論歩

 

 


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