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スタートレックメドレー

21世紀立ち上がりの頃、ネットの世界に足を踏み入れ、
当時、無料HPスペースCOOLにmr.spockのページを
開設していた。(2011年6月サービス終了)
そこで、バックグラウンドで流していたmidファイルを
発見したので、ようつべにUP!



CIMG0110.JPG
俺の生まれる前の話かーっ!midファイルなんてあったのかぁ?

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以上だ税。
固論歩

Zachary Quinto vs. Leonard Nimoy



Live long and prosper!VV

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more than tax
n2moy

臨海セミナー

学生時代、「さくら学習教室」という所で塾のバイトをしていた。
ある日、塾長が株式会社化すると言い出した・・・。
名前を募集する事になり、私は『臨海セミナー』と提案し採用された。
http://www.rinkaiseminar.co.jp/
卒業と同時に塾長から誘われたが、
「私は先を生きる技術者であり、教える師ではない。」
と断り、5523艦隊に入社した。
ある意味では初代講師だったと言えるだろうか・・・。

エールを送っておこうか・・・。

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お客様へ

「お元気ですか~っ」
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携わる方々へ

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艦長へ

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以上だ税。
固論歩


歴史的事件に潜むドラマ [ぴんぼけ]

「龍馬暗殺」「本能寺の変」 陰謀、戦い、恐れ…歴史的事件に潜むドラマを追い求めて

 昨年1年間、「日曜スペシャル」内で掲載してきた「清盛紀行」の後番組として、新年から京都を主要舞台に展開する歴史企画モノが登場する。その名も「関西歴史事件簿-現場を撮る」。歴史教科書に掲載されている有名な事件・出来事を、その場面をほうふつさせる写真とともに紹介していく。最初のエピソードは長岡京造営中に発生した「藤原種継(たねつぐ)暗殺事件」。1月13日付朝刊から「日曜スペシャル」(大阪府内を除く近畿、中四国など)で掲載する。

暗雲渦巻く長岡京遷都

 延暦3(784)年、桓武天皇は平城京から長岡京への遷都を計画し、実質的な造営責任者に当たる造長岡宮使に天皇の片腕といわれた中納言、藤原種継を指名する。

 それから1年。工事はトントン拍子に進んで宮殿の施設はほぼ完成。そんな折の9月23日夜、馬で工事現場の見回る種継は何者かが放った矢に射られ、死亡する。

 すぐに犯人は捕らえられる。大伴竹良や大伴継人らこれまで強大な勢力を誇った大伴氏が中心だった。万葉歌人として知られる大伴家持(やかもち)も首謀者として名が挙げられたが、事件直前に死去していた。

 遷都の目的は既存仏教勢力や貴族と距離を置くことにあった。それだけにこれまでの権勢を保ちたい大伴氏ら旧勢力側にとって、長岡京遷都は排除すべき最大の懸案だった。

 事件は桓武天皇の弟、早良(さわら)親王の関与疑惑へと発展する。早良親王は大伴氏や南都仏教とのつながりも深い。種継と不仲だったともささやかれていた。だが親王は無実を訴え続け、乙訓寺に幽閉された後に絶食。この結果、淡路島に送られる途中、天皇を恨みに思いつつ餓死する。

 それ以後、母や妻ら天皇の身のまわりで起きる奇怪な死。これが、あの“天神さん”菅原道真よりも150年ほど早い怨霊伝説へと発展する。

 朝廷は長岡京を離れて平安京遷都へと動き、早良親王に「崇道天皇」の尊称を贈ることになる。

 だが、平安京遷都まもない大同5(810)年、旧勢力と新勢力との戦いが平安、平城両京を舞台に再び発生する。「藤原薬子(くすこ)の変」である。


戦乱・政争の果てに

 1100年間、都が置かれた京都では数々の戦乱・政争があった。「応天門の変」(866年)や藤原氏最大の政敵、菅原道真の太宰府左遷(901年)などと権力争いの末に「安和の変」(969年)で藤原摂関家の政治的地位は揺るぎないものになる。

 さらに、争いは武家の世でも続く。

 摂関政治も末期、藤原氏に代わり権力を握った平清盛と後白河法皇が対立した「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」(1177年)や、源平の争いを経て成立した鎌倉幕府の第5代執権、北条時頼の長男の時輔と弟、時宗の異母兄弟の六波羅を舞台にした骨肉の争い。

 鎌倉幕府に代わって京都に幕府を開いた足利将軍家も、6代将軍の足利義教が播磨の守護大名の赤松氏に殺害されたことで将軍家の権威が失墜。応仁の乱へと発展して戦国の世へと続き、天下に最も近かった織田信長も家臣、明智光秀に本能寺で討たれるなど戦いは続いた。

 日本歴史の中でも特に無常観が際立つこのような時代を、この企画であるときは生々しく、あるときは情感たっぷりに描く。


そして幕末へ

 信長以後、豊臣秀吉が統一した天下は関ヶ原の戦と大坂の陣を経て、徳川幕府へと引き継がれる。

 政治の中心が江戸へと移った後、観光・文化都市として一応の平穏を保った京都も再び天皇を中心とする国家を望む勢力が台頭した19世紀中ごろ再び動乱に巻き込まれる。

 「志士」と呼ばれる、200年以上も続いた徳川の幕藩政治を変えようとする武士が京都に集まる。これに対して徳川政権を守る勢力も京へ。こんな世情の中で多くの者が命を落とす。

 この企画では、薩長同盟成立の立役者で大政奉還への尽力などで倒幕に影響を与えた土佐の坂本龍馬のほか、反幕府勢力を取り締まる「新選組」の成立にかかわり、近藤勇の一派との内部闘争の末に倒れた水戸藩浪士の芹沢鴨らにもスポットをあてる。


芸術の世界でも…

 戦いは政治の世界だけではなかった。

 安土・桃山時代に現れた狩野永徳と長谷川等伯という天下を二分にした絵師。正信以来、時の権力者の御用絵師として常に王道を歩んできた狩野派の5代目・永徳に対し、北陸の一介の仏画絵師から身を起こした等伯の絵を巡る争いは次の世代、(狩野)光信と(長谷川)久藏へと引き継がれていく。

 天才肌で武家好みの絵を描いた永徳と違い、貴族好みの大和絵風の絵を描く光信は“下手右京”とも評されるなど、評判は芳しくなかった。

 一方、父、等伯をもしのぐともいわれた長谷川派の若きエース、久蔵。勝負は明らかだった。そんな時に起きた久蔵の突然の死。陰謀の影もちらつく。

 この企画では、こういった武家以外の世界で起きた出来事のほか、1人の戦国武将にかかわる外伝も掲載予定にしている。

 「関西歴史事件簿-現場を撮る」に乞うご期待!(園田和洋)

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坂本龍馬暗殺 真犯人は? 幕末史上最大の謎…幕府、新選組、薩摩、長州の名も

 慶応3(1867)年11月15日午後9時ごろ、シーンと静まりかえった河原町の醤油(しょうゆ)屋、近江屋からバタバタという音とともに「こなくそ!!」という叫び声が響き渡った。騒ぎは一瞬で収まったが、2階の8畳間にはひとりの土佐脱藩浪士が血を流して倒れていた。坂本龍馬だ。

 龍馬は頭など34カ所に傷を受けてすでに死亡していた。ペリー来航以降、鎖国体制が崩れて諸外国の圧力が強まる中、弱体化した幕府に代わる新体制づくりに奔走した龍馬は、33歳という短い一生を終えた。

 事件はこんな形で進んでいった。

 襲われた近江屋2階は屋根裏で、天井は低い。夕刻から盟友・中岡慎太郎の訪問を受けた龍馬は風邪気味のため軍鶏(しゃも)鍋を食べようと近くの本屋の峰吉に肉を買いに走らせた。

 その直後、十津川郷士を名乗る2人の男が「龍馬に会いたい」と、元力士の使用人、山田藤吉に申し出てきた。龍馬に取り次いだ後に2人を先導して階段を登っていた矢先、藤吉が後ろから斬られる。

 藤吉の崩れる大きな物音に、龍馬は「ほたえな(ふざけるな)」と声をあげると、いきなり部屋の襖が開き、2人男に斬りつけられたのだ。

 額を斬られた龍馬。今度は刀のある床へ向いて背中を斬られる。傷は浅く何とか刀までたどり着くが、刀を握る龍馬の頭上から刀が振りかかってきた。

 鞘(さや)で払おうとするも不幸に鞘が天井に当たり、除けきれずに頭に深傷を負う。これが致命傷になる。中岡も隣の屋根に逃げたが28カ所に傷を負い、2日後に亡くなる。

 軍鶏肉を手に近江屋に戻ってきた峰吉の知らせで、龍馬の仲間が大勢駆けつけたが、犯人の姿はすでになかった。

 誰が龍馬を“やった”のか。これだけ有名な事件にもかかわらず犯人は分かっておらず、諸説が飛び交い、幕末史上最大のミステリーといわれる。

 最も有力視されているのは幕府の京都見廻組与領(くみがしら)の佐々木只三郎(旗本)とその部下。このほか新選組の原田左之助、薩摩藩の中村半次郎らの名前があがり、少数派ながら長州藩、土佐藩説もある。

 近江屋は四条河原町から北へ徒歩数分。龍馬のいた母屋は現在の河原町通の上に建っていたことから、当時の道路は現在の通りの東側歩道と同位置、同幅(約4メートル)。この結果、河原町蛸薬師交差点近くに建つ事件の石碑周辺がまさに殺害現場にあたる。

 石碑と現場がここまでピタリとくるケースは、結構珍しい。

坂本龍馬暗殺 油断した龍馬、「洛中」に潜まなかった「一生の不覚」

 京都では幕末の当時、天皇が君臨する洛中では捕物や殺生はやらないというのが、暗黙の了解にあった。このため、奉行所の役人たちは洛中で犯人の後をずっとつけて、洛外に出たところで逮捕、あるいは切り倒していたというのだ。

 幕末の兵法学者、佐久間象山が殺害された高瀬川周辺や新選組を一躍有名にした池田屋はまさに洛外だった。当時、東の京極が寺町通だったため、寺町通の東側に建っていた近江屋は洛外にあたる。

 龍馬も殺害される前年の慶応2(1866)年、伏見・寺田屋で奉行所の役人に襲撃されて重傷を負った苦い経験から、襲撃に対する心構えは十分できていたはず。

 龍馬が身を潜める近江屋は土佐藩御用達の商人で、河原町通をはさんだ向かいには土佐藩邸があった。さらには母屋の隣の土蔵で寝起きをし、いざというときには、隣の誓願寺に逃げ込むはしごを用意していたというほどの警戒ぶりだった。

 現在、河原町蛸薬師の交差点を東に入ったビルの一角に建つ岬神社は土佐藩邸内にあったことから、「土佐稲荷」の名前で知られている。ここから殺害現場の石碑までは数分とかからない。

 だが、龍馬はこの日、風邪気味のためか、母屋2階の8畳間で火鉢にあたりながら中岡慎太郎と話し込んでいた。とはいえこの8畳間も2階西端にあたり、刺客が階段を上がったとしても別の部屋もあり、簡単に攻撃を受けない位置にはあった。

 龍馬が無血による政権交代を願って奔走した「大政奉還(幕府が朝廷に政権を返上)」が実現した直後ということもあり、何らかの気のゆるみがあったのかもしれない。

 犯人については、関係者の証言から京都見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎(たださぶろう)▽犯人が叫んだ「こなくそ」の方言から薩摩藩士▽現場に残った刀の鞘から新選組・原田佐之助▽武力による倒幕を訴えた長州藩-など。

 黒幕には、無血による政権交代を好まない英・スコットランドの武器商、トーマス・グラバーらの名前があがるなど諸説あるが、いずれも確証なく、謎に包まれたままだ。

坂本龍馬暗殺 背景に「武器密輸利権」? 実はワルだった龍馬、黒幕に「桂小五郎」「グラバー」の名


 「日本を今一度せんたくいたし申候(もうしそうろう)」。坂本龍馬が京都・近江屋で殺害される4年少し前の文久3(1863)年6月、姉・乙女に宛てた書状の中にこういった一文が書かれていた。

 攘夷(じょうい)に燃える長州藩の攻撃で傷ついた外国の軍艦を修理する幕府の弱腰を嘆いた龍馬が朝廷の下で幕府官僚を討ち、再び美しい日本を取り戻そうという決意を述べたものだった。

 師と仰ぐ勝海舟と立ち上げた神戸海軍操練所の廃止後、龍馬は長崎で商社を設立すると、英・グラバー商会を介して大量の銃弾を密輸。これをもとに犬猿の仲だった薩摩、長州両藩を結びつけた。

 そして両藩の強力な兵力を背景に幕府に政権を朝廷に返上させる大政奉還を迫る。幕府からすれば、武器密輸の主犯に屈したことになるから、相当に恨んだことだろう思われる。

 また、大政奉還直前の10月に龍馬が入京した際に噂が噂を呼び、数百人の海援隊を引き連れて-とデマが飛ぶ。これでは京都の治安が守れないと、京都守護職の松平容保(かたもり)も危機感を抱いただろう。

 だが当時、幕府で重役を担った勝や松平春嶽(しゅんがく)と深いつながりをもつ龍馬を簡単には襲えない。浪士集団の新選組が手出しできなかったのは、そのためだったともされている。

 一方、旗本の子弟が集まる京都見廻組は襲うだけの格はあった。メンバーの自供もあり、容疑者として有力視されてはいる。だが、自分が主犯か見張りかで二転三転するなど内容に信頼性に欠けるため、真犯人とまではいたっていない。

 では誰が龍馬を。いなくなって最も利するのは、無血倒幕を考えていた龍馬に対して武力倒幕を考えていた桂小五郎を中心とする長州藩だろう。

 売り込んだ武器が使われなければ掛け金が回収できないトーマス・グラバーが両藩を裏で扇動したとの説もある。現に大戦争に発展しなかったため後年、グラバー商会は倒産する。

 さらに大政奉還の手柄を独り占めにしたい土佐・後藤象二郎の説も。

 事件後、龍馬と中岡慎太郎は霊明神社の墓地(現在の京都霊山護国神社)に埋葬される。東山の高台にある墓からは京都市街地が一望でき、150年経た今も人々の営みを静かに見守っている。

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池田屋事件 新選組、天下にその名を…敵の謀略暴いた土方歳三の拷問

 「四条河原町の桝屋の動きがどうも騒がしい」。新選組の秘密警察「監察」の島田魁(かい)、山崎烝(すすむ)らから報告を受けた局長の近藤勇と副長の土方歳三が桝屋の家宅捜索を命じたのが元治元(1864)年6月5日だった。

 「御用改めである」。武田観柳斎を筆頭に新選組が踏み込み、くまなく捜索したところ武器弾薬類や諸藩浪士関係の書類が出てきたため店の主、喜右衛門を逮捕する。

 この桝屋喜右衛門こそが反幕府の皇族、有栖川宮熾仁(たるひと)親王と長州藩の間をつないだ尊王攘夷(尊攘)派の志士、古高俊太郎だった。

 近江国古高村(現在の滋賀県守山市)で代官所の下級役人の子として生まれた古高は尊攘派の儒学者、梅田雲浜(うんぴん)に弟子入り。肥後藩出身の尊攘派で長州藩でも影響力を持つ宮部鼎蔵(ていぞう)とも親交があり、店は尊攘派の拠点になっていた。

 文久3(1863)年8月18日、会津藩、薩摩藩ら公武合体派によるクーデターで京都から追放された長州藩ら尊攘派が巻き返しを狙っている最中だっただけに、古高の逮捕は大きな打撃だったに違いない。

 古高の動きの裏に潜む事の重大性を読んだ近藤と土方が、壬生の八木邸と並ぶもうひとつの屯所・前川邸で行った取り調べはすさまじいものだった。

 2階建ての土蔵で逆さづりにし、1階で胴、2階で足をむち打つ。それでも口を割らないため、土方がくぎを足の甲から裏に打ち抜き、そこに火の付いたロウソクを立てさせる。こんな冷酷な攻めに音を上げた古高はついに恐るべき計画を自供した。

 祇園祭の風の強い日に御所に火を放ち、そのすきに公武合体派の中川宮を幽閉。将軍後見職の一橋慶喜と京都守護職の松平容保(かたもり)を殺害するとともに孝明天皇を長州へ誘拐する-というものだった。

 さらに捜査を進めたところ、古高逮捕を受けて計画の実行か中止を決める会合を三条小橋近くの池田屋か四国屋で開くことも判明した。

 上洛する将軍、徳川家茂の警護のため京へ入った近藤ら。いかつい風体から“壬生浪(みぶろう)”とさげすまれたその名を一躍天下に知らしめた池田屋事件はこうやって幕を開けたのだった。

池田屋事件 新選組・近藤、土方、沖田…宵々山の出撃 その後の名声を決定づけた「偶然」

 四条河原町に店を構えながら尊王攘夷(尊攘)派志士として活動していた古高俊太郎が、孝明天皇を略奪するクーデターの全貌を自白した元治元(1864)年6月5日、新選組は尊攘派の一掃を目指してただちに行動に出る。

 この日は祇園祭の宵々山で、日も暮れてから町はにぎわいを見せ、「コンチキチン」の祇園囃子が町のあちこちから聞こえてきたことだろう。

 動きを相手に悟られないよう、隊士らは普段と変わらない様子で三々五々、3人、5人と連れだって壬生の屯所を出る。そして町を見回った後、午後9時前には、八坂神社西楼門近くの祇園町会所に全員が集まった。

 隊内に病人などが続出したため集合した隊士は総勢30人余り。だが、会津藩もこの機を逃せば再び尊攘派の巻き返しを受けることは必至と出兵を決定。京都所司代や町奉行らとも示し合わせて動く予定だった。

 ところが、手配の遅れなどで会津らは来ない。「遅い」。しびれを切らせた新選組局長の近藤勇と副長の土方歳三は、応援を待たずに新選組単独での捜索を命じた。

 尊攘派志士の集合場所がわからず、立ち寄りそうな会津藩のリストをもとに近藤は木屋町、土方は祇園に分かれてしらみつぶしに探索した。

 この結果、午後10時過ぎに会所から北西約1キロ離れた三条小橋西詰の旅籠(はたご)屋「池田屋」と同小橋北の旅籠屋「四国屋丹虎(たんとら)」に浪士が集まっているという情報をキャッチする。

 長州藩邸に近い池田屋は同藩の定宿で、この日の会合には20人以上の志士がいて、長州の尊攘派の中でも過激派の桂小五郎も顔を出す予定だった。

 そんな中、土方隊が四国屋に向かう。そのとき池田屋へ行く近藤が連れていた隊士は5、6人とも、10人ともいわれている。

 近藤が池田屋にいる志士の数をどこまで把握していたかは不明だが、少人数ながら近所から池田屋の間取りを聞き込むなど極めて冷静だった。

 さらに表口、裏口に隊士を配置させた後、沖田総司や永倉新八、藤堂平助という“腕利き”と一緒にこう言って突入する。

 「御用改めである!!」

池田屋事件 龍馬の“同士”ら9人切り捨てる 新選組の強さ示した伝説の「急襲」を再現

 元治元(1864)年6月5日午後10時過ぎ、新選組局長の近藤勇が「主人はおるか、ご用改めである」と声を張り上げ、沖田総司らとともに三条小橋西詰の旅籠(はたご)屋「池田屋」に突入した。

 2階に約30人の尊王攘夷(尊攘)派の浪士がいたことから、池田屋主人、惣兵衛はうろたえながら階段を上がっていった。

 惣兵衛の慌てぶりに浪士の存在を確信した近藤は永倉新八、藤堂平助を1階に待機させ、沖田総司と裏階段を駆け上がる。

 そこで浪士とかち合った近藤と沖田。近藤は多勢に無勢と思ったのか、いきなり「手向かいすると切り捨てるぞ!!」と怒鳴って相手を威嚇。両者に一瞬、緊張感が走った。

 が、にらみ合いもそう長くは続かなかった。突然に切りかかった浪士を沖田がバッサリと切り捨てたところで戦闘が始まった。

 浪士の多くは池田屋から北約300メートルの長州藩邸を目指し、吹き抜けから1階の中庭に飛び降りて脱出しようと試みる。ここで「1階が主戦場」とみた近藤は2階に沖田を置き、1階へ下りる。

 1階の永倉と藤堂は土間付近で脱出を図ろうとする浪士を相手に応戦。藤堂は額を切られ、永倉も左手を負傷する。2階の沖田は無類の強さを見せたが、吐血をして倒れ、戦線を離脱してしまう。

 近藤も囲まれるなど苦戦の連続だった。だが、ここで三条小橋北詰の四国屋丹虎(たんとら)に浪士がいないことを確認した副長、土方歳三の隊が合流してきたため形勢は逆転。戦いは2時間で終了した。

 浪士集団のリーダー的存在だった肥後藩・宮部鼎蔵(ていぞう)や、勝海舟が創設した神戸海軍操練所で坂本龍馬と訓練を受けていた土佐・北添佶摩(きつま)ら計9人が死亡、4人が捕らえられたという。翌日も会津藩などによる掃討作戦でさらに多くの尊攘派を失う。

 北添が事件に加担していたため、幕府の反感を買った操練所は廃止を余儀なくされ、行く先を失った龍馬はこのあと、倒幕へ走り出す。

 一方、ダメージを受けた長州は報復のために挙兵すると、事件から1カ月半後の7月19日に蛤御門(はまぐりごもん)の変が勃発。京の街は一瞬にして灰になってしまうのだった。


(園田和洋)

MSN産経ニュースWESTからの抜粋

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固論歩

【関西歴史事件簿 本能寺の変】 [ぴんぼけ]

「魚が腐っているぞ!」信長の叱責で従順な光秀がキレた? 謎を呼ぶ謀反の真相 

 天下統一を目前にした織田信長が天正10(1582)年、最も信頼を寄せていた家臣の一人、明智光秀に京都・本能寺で討たれる。従順なはずの光秀がなぜ謀反を起こしたのか。今も多くの謎に包まれ、歴史最大のミステリーになっている。今回はその謎を解きほぐしつつ、5回にわたって事件の真相に迫る。

 信長が討たれた本能寺は今、京都市役所前の河原町御池近くに伽藍(がらん)を見る。だが、当時の本能寺は今の場所から西約1キロの堀川通の近くにあった。

 現在の市立堀川高校の裏手に近い住宅地の中。北端は六角通、南端は蛸薬師(たこやくし)通。東端は西洞院(にしのとういん)通、西端は油小路と、現在とほぼ同じ広さはあったようだ。

 寺といえ当時は石垣が施された幅の広い堀や土居と要塞化され、防御に優れていた。

 が、事件当日は多勢に無勢。光秀の攻撃を受けて信長が寺に火を放つと寺は丸焼けに。その後、豊臣秀吉に整地され、事件から9年後の天正19年、寺は現在地に移っている。

 旧寺域からは平成19年から翌年にかけて実施された発掘調査で、石垣や焼け土とともに「能」の異体字の銘を持つ瓦などが大量に出土したのは記憶に新しい。

 応仁の乱以来、長く続いた戦乱のため、京都は当時の首都とはいえ町は相当に荒れ果てていた。

 相国寺を周辺にした上京と四条通を中心にした下京にわずかに町並みが形成され、かつて都の中心だった二条通周辺は田園地帯と化していた。その上京と下京を結んでいた道路は室町通1本だけというお寒い風景だった。

 そんな中、それぞれに場所や時代も異なるが、室町幕府や信長らは二条通周辺に城郭・御所を築く。この伝統を引き継いだ徳川家康ら江戸幕府が築いたのが、今に残る二条城だ。

 事件時、信長の長男、信忠が宿舎とした妙覚寺は信長の本能寺とは北東約1キロの二条衣棚(ころもたな)にあった。襲撃を知り、信忠は寺を出て光秀を討とうとするが、本能寺が落ちたのを知ると二条御新造で自害する。

 事件の約2週間前の5月15日、信長の居城・安土城で、最大のライバルとみられた武田氏を天目山で滅亡させた祝勝会を開いたときのこと。

 徳川家康の接待役に選ばれた明智光秀は料理の魚が腐っていると信長に叱責されると、役目を解任されて備中(今の岡山)で毛利軍と奮戦中の秀吉軍の援軍を命じられる。

 そのうえ領地の丹波と近江を召し上げられた揚げ句に、毛利領の石見と出雲を「自分で取ってこい」と言われる始末。

 この話をそのまま受け取れば、非情な命である。いくら従順な光秀でも怒るのも当然だろう。

 越前・朝倉家や足利将軍家とのつながりが深い光秀が信長の家臣になるころ、信長に命じられた比叡山焼き打ちは信心深い光秀にとっては辛い出来事だったに違いない。

信長の油断が招いたクーデター 数時間で日本の権力構造が一変

 天正10(1582)年6月2日午前4時ごろ、中国地方の毛利軍と戦闘中の羽柴秀吉の援軍要請もあり、京都・本能寺に宿泊中の織田信長は外の騒がしい物音で目が覚めた。

 最初に異変に気付いたのは本能寺門前にいた信長の家臣、村井貞勝といわれている。貞勝も信長も最初は誰かのけんかかと思っていた。

 だが、多くの旗が寺のまわりを取り囲んでいることに気づき、近くにいた小姓の森蘭丸に「謀反? 誰のたくらみか」と聞くと、蘭丸は「旗の家紋がキキョウ。明智光秀のようです」と答える。

 蘭丸はすぐに寺を脱出することを信長に進言したものの、1万3000の明智軍に対し「多勢に無勢」を悟った信長は、「是非に及ばず」と一言。弓を持ち出した。

×  ×  ×

 本能寺の変の1カ月前の5月、かつては戦国最強とうたわれた武田軍を天目山で壊滅させ、四国の長宗我部軍、北陸の上杉軍は信長に対抗する力はなく、中国の雄・毛利軍とも優位に戦いを進めていた。

 すでに天下統一も目前というところで秀吉から援軍要請。低湿地に囲まれてなかなか落とせない備中高松城に4万の毛利輝元軍が接近しつつあるという状況に、おそらく信長は毛利壊滅のチャンスと思ったのだろう。

 信長が自ら備中へ向かうため光秀に先陣を務めるように命令する。このとき信長が本能寺に連れてきた家臣は20~30人とも160人ともいわれている。

 当然、信長本隊の警護が手薄なことは承知していた明智軍は空が白みかけたころ、寺に向けて発砲すると同時に明智光春らが四方から一斉に境内になだれ込んだ。

 弓を持って応戦した信長だったが、数本の矢を撃ったところで弓が折れる。すると今度は薙刀(なぎなた)に持ち替えて奮戦するも、左肩に銃撃を受けるなどしたため、ついに断念する。

 信長は女衆に逃げるように指示した後、奥にこもって「誰も入れさせるな」と寺に火を放つよう蘭丸に指示。自刀して果てた。

 これに対し、村井貞勝は本能寺から北約1キロ離れた妙覚寺に滞在中の織田信忠に光秀の謀反を報告。信忠は寺を出て、隣の二条御新造で光秀勢を迎え撃つことを決意する。

 だが光秀の大軍にはかなわず、城に火をつけて自刃してしまう。以降、織田家は衰退の道をたどる。

 天下統一を目前にした信長の油断が招いた光秀のクーデター。わずか数時間で日本の権力構造が一変する日本歴史上ショッキングな事件となった。

恩人のドクロで酒宴、比叡山焼き打ち…信長に「鬼」を見た光秀

 京都市北区の寺町通沿いに建つ曹洞宗寺院・天寧寺の本堂の天井裏から、明智光秀の位牌(いはい)が出てきたことが以前、話題になった。光秀の死後、数百年経た江戸時代に作られたものらしい。

 「謀反人」という世評もあるため天井裏に置かれたのだろうが、ちょうど本尊の上あたりに置いていたというから、お寺としては相当に大事にしていたのだろうと思われる。

 なぜこの寺に置かれていたのか、ということについては定説はない。天寧寺はもともと会津藩にかかわる寺で、光秀との関係は考えられない。

 だが、この寺が建つ以前は比叡山延暦寺の末寺、松陰坊があったという。延暦寺への参拝前に宿泊するような施設だったようで、今も境内から比叡山が美しく望める。特に門から見る山は絶景で、「額縁の門」の名を持つ。

 つまり、光秀の位牌は松陰坊、ひいては延暦寺と光秀の関わりの深さを物語るもので、それを寺が変わった今も守っている-ということである。

×  ×  ×

 光秀と比叡山で思い出されるのは、元亀2(1571)年9月の比叡山の焼き打ちだろう。実行部隊として信長に従ったものの、教養が高く、信心深い光秀にとっては耐え難い行為だったかもしれない。

 このためだろうか、神仏の嫌いな信長は焼き打ちの戦後処理を光秀に任せたうえで比叡山の麓に領地を与え、光秀は延暦寺のおひざ元・坂本に城を構えることになる。

 このころから、光秀は信長の中に「鬼」を見ていたのではないか。

 その後、かつて仕えていた朝倉義景と浅井久政・長政親子の頭蓋骨に金箔(きんぱく)を張って酒宴を催し、一向一揆では信者を大量虐殺するなど、光秀にとって非情な出来事が次々起こる。

 そして、本能寺の1カ月前。武田家を滅ぼした徳川家康と酒宴を催した際、接待役を任された光秀が因縁をつけられた揚げ句、中国で毛利軍と戦闘中だった格下の羽柴秀吉の援軍を命じられる始末…。

 どこまでが事実かは不明な点はあるが、信長が光秀に仕打ちを行ったエピソードは数限りない。

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 天正10(1582)年5月27日、光秀は丹波(現在の京都府亀岡市)の亀山城から「明智越え」を経由して愛宕山を参拝する。愛宕神社の本地仏が勝軍地蔵のため、戦勝祈願に出向いた光秀は何度もくじを引いたという。

 翌日の連歌会で光秀が詠んだ句は「時は今 あめが下しる 五月かな」。

 「時」は光秀の出身の土岐氏。「あめが下しる」は「天が下知る」に置き換えることができ、天下取りを意識した句だいうのが大方の見方だ。

 6月1日夕刻、秀吉の援軍に向かうとして、1万3千の兵を率いて亀山城を出た光秀は重臣に謀反の意志を伝え、桂川を渡ったところで全軍にあの名文句「敵は本能寺にあり」と伝えたという。

 山陰街道から七条通に入った明智軍の先鋒(せんぽう)は斎藤利三(としみつ)が務め、暗がりの中で町内ごとにある柵を開かせながらスムーズに本能寺に近づいた。さらに嫡男・信忠のいる妙覚寺へと軍を進めていく。

 わずかな手勢しか率いていなかった信長・信忠親子を夜明け間近に襲った計画は信長の虚を突く、いくさ巧者の光秀らしい作戦だった。

消えた信長の遺体 光秀の捜索でも見つからず 謎呼ぶ暗殺劇

 全国統一が間近だった織田信長が絶対的に信頼を寄せていた家臣、明智光秀の襲撃を受けた本能寺の変も今でいうサラリーマンの出勤時までには片が付いたと思われ、光秀は焼け落ちた本能寺の中から信長の遺体の捜索を命じる。

 だが、探しても信長の遺体は見つからない。「もしかして信長は逃げ出したのか…」。焦る光秀軍は洛中の住宅に一軒一軒入り込んで、家捜しをする慌てぶりだったという。

 実は、織田家と深い親交のある阿弥陀寺の清玉(せいぎょく)上人が、本能寺のことを聞きつけると現場に向かい、信長の遺体を持ち帰ったというのだ。

 この話は阿弥陀寺の記録に残っている。もう少し詳しく述べると、次のようになる。

 上人は20人ほどの僧を連れて本能寺と二条御新造に向かう。本能寺では表門から入ることができず裏門から入ると信長の遺体を側近が焼く場面に出くわす。そこで頼み込んで遺骨を引き取ると衣に包み、混乱に紛れて阿弥陀寺に運んだという。

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 しかし、明智軍が必死で信長の遺体を捜索している最中に清玉上人が遺骨を引き取ったというのは、どこまで信用できる話か疑問が残る。

 信長が蘭丸に命じて火を付けさせ、寺は丸焼けになっているのである。遺体も炭化していて、どの遺体が誰なのか、今のように科学捜査の技術が発達していれば可能だろうが、当時としては無理なこと。

 だが、寺町通沿いに仏閣を見せる阿弥陀寺の墓地には、「織田信長信忠討死衆墓所」として信長ほか、本能寺の変で亡くなった信長の小姓、森蘭丸らの墓も建つ。

 この点からして、事後に信長のいた本能寺と信忠のいた二条御新造に入った清玉上人らは、残骸の中に残っていた無数の正体不明の遺骨を拾い、阿弥陀寺に収容したと見る方が自然。たぶんその中に、信長や信忠の遺骨もあったようにも思える。

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 信長の正式な墓はどこか-となると、これもまた難しい。

 京都市内だけでも阿弥陀寺(上京区)のほか、信長が襲撃を受けた本能寺(中京区)は特に有名。

 信長の後継者として世間的に印象づけたい羽柴秀吉が信長の葬儀を盛大にとり行い、菩提(ぼだい)寺とした大徳寺塔頭(たっちゅう)・総見院(北区、通常非公開)には信長の正室、帰蝶(濃姫)や側室、お鍋の墓ら一族の墓が並ぶ。

 秀吉は清玉上人に信長の一周忌法要を依頼するが、政治的な宣伝に使われると読んだ上人は秀吉の依頼をはねつける。そうして建てられたのが総見院。遺灰も遺骨もない中、2体作った信長の木像うち一体を火葬にしたという。

 この後、秀吉は阿弥陀寺はこの仕返しとして、今出川大宮にあった阿弥陀寺を東約1・5キロの寺町通の現在地に縮小、移転させている。

 このほか、信忠の菩提寺の大雲院(東山区、通常非公開)▽信長の乳母の菩提寺、妙心寺塔頭・玉鳳院(右京区、通常非公開)-など。全国的にみると信長の墓は相当数にのぼり、どれが本物かはまったくの不明である。

秀吉の超人的破壊力に屈した「天王山」 無残!光秀「12日天下」の夢

 本能寺の変のとき、織田信長の同盟者、徳川家康や有力家臣たちは、どこにいて、どのような状況だったのか。

 羽柴秀吉は備中・高松城(現在の岡山市)で毛利軍と対峙(たいじ)していたのだが、信長と同盟を結んでいた徳川家康は大坂・堺で観光中だった。

 さらに織田信長の有力家臣の中、柴田勝家は越中・魚津城(富山)で上杉軍と壮絶な戦いを展開。滝川一益は上野・厩(うまや)橋(東京)で北条氏、四国の長宗我部を討つために待機中の丹羽長秀は家康の接待役を命じられ、大坂にいた。

 このようにバラバラの状態で主君の死の知らせを受けたのだが、この中で最も素早い行動をみせたのが秀吉だった。

 事件翌日の3日夜、知らせを聞いた秀吉は信長の死をまだ知らない毛利軍と和睦すると、5日に撤兵を始め、7日には姫路入り。11日には尼崎と、当時としては考えられないスピードで京へ向かった。

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 一方、光秀は事後、安土城に入ると、有力武将を身方に引き入れようと説得していくが、予想以上に難航した。

 特に期待していた娘の嫁ぎ先、細川氏のほか筒井順慶ら畿内の有力大名、5日間にわたる説得した朝廷にも支持されることなく、四面楚歌(しめんそか)のまま秀吉軍を迎えることになる。

 12日は摂津富田(せっつとんだ)まで迫った秀吉軍。2万の軍隊が1週間ほどで180キロを動いたのだ。この素早さは光秀にとっては計算外だった。

 戦いの準備が整わないうちに出陣した1万強の光秀軍は京都の入り口、天王山の麓、山崎で秀吉軍を待つことになった。

 天王山と男山に挟まれた地に宇治、木津の3川が流れる交通の要衝。摂津の有力武将を味方に付けて自軍の倍以上にふくれあがった秀吉軍と13日午後4時、ついに激突した。

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 初めこそ斎藤利三らの奮戦で優位に進めたが、側面を突かれた光秀軍は総崩れとなる。日没が幸いして光秀は近くの勝龍寺城まで退却したが、兵は相次ぐ脱走で700まで減少する。

 ここで討ち死にも考えた光秀だったが、「坂本などに合わせて5千の兵が健在です。再起を」という家臣の進言もあり翻意。居城の近江・坂本城に一旦戻り、兵を立て直すことを決意する。

 少ない手勢とともに闇に紛れて勝龍寺城を脱出した光秀は雨の中、30キロほど進んだだろうか。小栗栖(おぐりす)(京都市山科区)の本経寺の裏の竹薮にさしかかった所で落人狩りに遭い、竹槍で脇腹を突かれる。

 光秀はそこで絶命したとも、家臣の介錯で自刀したとも伝えられる。本能寺の変からわずか12日のことだった。光秀の首は、粟田口(あわたぐち)(京都市東山区)に埋められたとされ、知恩院の近くに「首塚」とされる五重の石塔が残る。

(園田和洋)


MSN産経ニュースWESTからの抜粋

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