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歴史的事件に潜むドラマ [ぴんぼけ]

「龍馬暗殺」「本能寺の変」 陰謀、戦い、恐れ…歴史的事件に潜むドラマを追い求めて

 昨年1年間、「日曜スペシャル」内で掲載してきた「清盛紀行」の後番組として、新年から京都を主要舞台に展開する歴史企画モノが登場する。その名も「関西歴史事件簿-現場を撮る」。歴史教科書に掲載されている有名な事件・出来事を、その場面をほうふつさせる写真とともに紹介していく。最初のエピソードは長岡京造営中に発生した「藤原種継(たねつぐ)暗殺事件」。1月13日付朝刊から「日曜スペシャル」(大阪府内を除く近畿、中四国など)で掲載する。

暗雲渦巻く長岡京遷都

 延暦3(784)年、桓武天皇は平城京から長岡京への遷都を計画し、実質的な造営責任者に当たる造長岡宮使に天皇の片腕といわれた中納言、藤原種継を指名する。

 それから1年。工事はトントン拍子に進んで宮殿の施設はほぼ完成。そんな折の9月23日夜、馬で工事現場の見回る種継は何者かが放った矢に射られ、死亡する。

 すぐに犯人は捕らえられる。大伴竹良や大伴継人らこれまで強大な勢力を誇った大伴氏が中心だった。万葉歌人として知られる大伴家持(やかもち)も首謀者として名が挙げられたが、事件直前に死去していた。

 遷都の目的は既存仏教勢力や貴族と距離を置くことにあった。それだけにこれまでの権勢を保ちたい大伴氏ら旧勢力側にとって、長岡京遷都は排除すべき最大の懸案だった。

 事件は桓武天皇の弟、早良(さわら)親王の関与疑惑へと発展する。早良親王は大伴氏や南都仏教とのつながりも深い。種継と不仲だったともささやかれていた。だが親王は無実を訴え続け、乙訓寺に幽閉された後に絶食。この結果、淡路島に送られる途中、天皇を恨みに思いつつ餓死する。

 それ以後、母や妻ら天皇の身のまわりで起きる奇怪な死。これが、あの“天神さん”菅原道真よりも150年ほど早い怨霊伝説へと発展する。

 朝廷は長岡京を離れて平安京遷都へと動き、早良親王に「崇道天皇」の尊称を贈ることになる。

 だが、平安京遷都まもない大同5(810)年、旧勢力と新勢力との戦いが平安、平城両京を舞台に再び発生する。「藤原薬子(くすこ)の変」である。


戦乱・政争の果てに

 1100年間、都が置かれた京都では数々の戦乱・政争があった。「応天門の変」(866年)や藤原氏最大の政敵、菅原道真の太宰府左遷(901年)などと権力争いの末に「安和の変」(969年)で藤原摂関家の政治的地位は揺るぎないものになる。

 さらに、争いは武家の世でも続く。

 摂関政治も末期、藤原氏に代わり権力を握った平清盛と後白河法皇が対立した「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」(1177年)や、源平の争いを経て成立した鎌倉幕府の第5代執権、北条時頼の長男の時輔と弟、時宗の異母兄弟の六波羅を舞台にした骨肉の争い。

 鎌倉幕府に代わって京都に幕府を開いた足利将軍家も、6代将軍の足利義教が播磨の守護大名の赤松氏に殺害されたことで将軍家の権威が失墜。応仁の乱へと発展して戦国の世へと続き、天下に最も近かった織田信長も家臣、明智光秀に本能寺で討たれるなど戦いは続いた。

 日本歴史の中でも特に無常観が際立つこのような時代を、この企画であるときは生々しく、あるときは情感たっぷりに描く。


そして幕末へ

 信長以後、豊臣秀吉が統一した天下は関ヶ原の戦と大坂の陣を経て、徳川幕府へと引き継がれる。

 政治の中心が江戸へと移った後、観光・文化都市として一応の平穏を保った京都も再び天皇を中心とする国家を望む勢力が台頭した19世紀中ごろ再び動乱に巻き込まれる。

 「志士」と呼ばれる、200年以上も続いた徳川の幕藩政治を変えようとする武士が京都に集まる。これに対して徳川政権を守る勢力も京へ。こんな世情の中で多くの者が命を落とす。

 この企画では、薩長同盟成立の立役者で大政奉還への尽力などで倒幕に影響を与えた土佐の坂本龍馬のほか、反幕府勢力を取り締まる「新選組」の成立にかかわり、近藤勇の一派との内部闘争の末に倒れた水戸藩浪士の芹沢鴨らにもスポットをあてる。


芸術の世界でも…

 戦いは政治の世界だけではなかった。

 安土・桃山時代に現れた狩野永徳と長谷川等伯という天下を二分にした絵師。正信以来、時の権力者の御用絵師として常に王道を歩んできた狩野派の5代目・永徳に対し、北陸の一介の仏画絵師から身を起こした等伯の絵を巡る争いは次の世代、(狩野)光信と(長谷川)久藏へと引き継がれていく。

 天才肌で武家好みの絵を描いた永徳と違い、貴族好みの大和絵風の絵を描く光信は“下手右京”とも評されるなど、評判は芳しくなかった。

 一方、父、等伯をもしのぐともいわれた長谷川派の若きエース、久蔵。勝負は明らかだった。そんな時に起きた久蔵の突然の死。陰謀の影もちらつく。

 この企画では、こういった武家以外の世界で起きた出来事のほか、1人の戦国武将にかかわる外伝も掲載予定にしている。

 「関西歴史事件簿-現場を撮る」に乞うご期待!(園田和洋)

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坂本龍馬暗殺 真犯人は? 幕末史上最大の謎…幕府、新選組、薩摩、長州の名も

 慶応3(1867)年11月15日午後9時ごろ、シーンと静まりかえった河原町の醤油(しょうゆ)屋、近江屋からバタバタという音とともに「こなくそ!!」という叫び声が響き渡った。騒ぎは一瞬で収まったが、2階の8畳間にはひとりの土佐脱藩浪士が血を流して倒れていた。坂本龍馬だ。

 龍馬は頭など34カ所に傷を受けてすでに死亡していた。ペリー来航以降、鎖国体制が崩れて諸外国の圧力が強まる中、弱体化した幕府に代わる新体制づくりに奔走した龍馬は、33歳という短い一生を終えた。

 事件はこんな形で進んでいった。

 襲われた近江屋2階は屋根裏で、天井は低い。夕刻から盟友・中岡慎太郎の訪問を受けた龍馬は風邪気味のため軍鶏(しゃも)鍋を食べようと近くの本屋の峰吉に肉を買いに走らせた。

 その直後、十津川郷士を名乗る2人の男が「龍馬に会いたい」と、元力士の使用人、山田藤吉に申し出てきた。龍馬に取り次いだ後に2人を先導して階段を登っていた矢先、藤吉が後ろから斬られる。

 藤吉の崩れる大きな物音に、龍馬は「ほたえな(ふざけるな)」と声をあげると、いきなり部屋の襖が開き、2人男に斬りつけられたのだ。

 額を斬られた龍馬。今度は刀のある床へ向いて背中を斬られる。傷は浅く何とか刀までたどり着くが、刀を握る龍馬の頭上から刀が振りかかってきた。

 鞘(さや)で払おうとするも不幸に鞘が天井に当たり、除けきれずに頭に深傷を負う。これが致命傷になる。中岡も隣の屋根に逃げたが28カ所に傷を負い、2日後に亡くなる。

 軍鶏肉を手に近江屋に戻ってきた峰吉の知らせで、龍馬の仲間が大勢駆けつけたが、犯人の姿はすでになかった。

 誰が龍馬を“やった”のか。これだけ有名な事件にもかかわらず犯人は分かっておらず、諸説が飛び交い、幕末史上最大のミステリーといわれる。

 最も有力視されているのは幕府の京都見廻組与領(くみがしら)の佐々木只三郎(旗本)とその部下。このほか新選組の原田左之助、薩摩藩の中村半次郎らの名前があがり、少数派ながら長州藩、土佐藩説もある。

 近江屋は四条河原町から北へ徒歩数分。龍馬のいた母屋は現在の河原町通の上に建っていたことから、当時の道路は現在の通りの東側歩道と同位置、同幅(約4メートル)。この結果、河原町蛸薬師交差点近くに建つ事件の石碑周辺がまさに殺害現場にあたる。

 石碑と現場がここまでピタリとくるケースは、結構珍しい。

坂本龍馬暗殺 油断した龍馬、「洛中」に潜まなかった「一生の不覚」

 京都では幕末の当時、天皇が君臨する洛中では捕物や殺生はやらないというのが、暗黙の了解にあった。このため、奉行所の役人たちは洛中で犯人の後をずっとつけて、洛外に出たところで逮捕、あるいは切り倒していたというのだ。

 幕末の兵法学者、佐久間象山が殺害された高瀬川周辺や新選組を一躍有名にした池田屋はまさに洛外だった。当時、東の京極が寺町通だったため、寺町通の東側に建っていた近江屋は洛外にあたる。

 龍馬も殺害される前年の慶応2(1866)年、伏見・寺田屋で奉行所の役人に襲撃されて重傷を負った苦い経験から、襲撃に対する心構えは十分できていたはず。

 龍馬が身を潜める近江屋は土佐藩御用達の商人で、河原町通をはさんだ向かいには土佐藩邸があった。さらには母屋の隣の土蔵で寝起きをし、いざというときには、隣の誓願寺に逃げ込むはしごを用意していたというほどの警戒ぶりだった。

 現在、河原町蛸薬師の交差点を東に入ったビルの一角に建つ岬神社は土佐藩邸内にあったことから、「土佐稲荷」の名前で知られている。ここから殺害現場の石碑までは数分とかからない。

 だが、龍馬はこの日、風邪気味のためか、母屋2階の8畳間で火鉢にあたりながら中岡慎太郎と話し込んでいた。とはいえこの8畳間も2階西端にあたり、刺客が階段を上がったとしても別の部屋もあり、簡単に攻撃を受けない位置にはあった。

 龍馬が無血による政権交代を願って奔走した「大政奉還(幕府が朝廷に政権を返上)」が実現した直後ということもあり、何らかの気のゆるみがあったのかもしれない。

 犯人については、関係者の証言から京都見廻組与頭(くみがしら)の佐々木只三郎(たださぶろう)▽犯人が叫んだ「こなくそ」の方言から薩摩藩士▽現場に残った刀の鞘から新選組・原田佐之助▽武力による倒幕を訴えた長州藩-など。

 黒幕には、無血による政権交代を好まない英・スコットランドの武器商、トーマス・グラバーらの名前があがるなど諸説あるが、いずれも確証なく、謎に包まれたままだ。

坂本龍馬暗殺 背景に「武器密輸利権」? 実はワルだった龍馬、黒幕に「桂小五郎」「グラバー」の名


 「日本を今一度せんたくいたし申候(もうしそうろう)」。坂本龍馬が京都・近江屋で殺害される4年少し前の文久3(1863)年6月、姉・乙女に宛てた書状の中にこういった一文が書かれていた。

 攘夷(じょうい)に燃える長州藩の攻撃で傷ついた外国の軍艦を修理する幕府の弱腰を嘆いた龍馬が朝廷の下で幕府官僚を討ち、再び美しい日本を取り戻そうという決意を述べたものだった。

 師と仰ぐ勝海舟と立ち上げた神戸海軍操練所の廃止後、龍馬は長崎で商社を設立すると、英・グラバー商会を介して大量の銃弾を密輸。これをもとに犬猿の仲だった薩摩、長州両藩を結びつけた。

 そして両藩の強力な兵力を背景に幕府に政権を朝廷に返上させる大政奉還を迫る。幕府からすれば、武器密輸の主犯に屈したことになるから、相当に恨んだことだろう思われる。

 また、大政奉還直前の10月に龍馬が入京した際に噂が噂を呼び、数百人の海援隊を引き連れて-とデマが飛ぶ。これでは京都の治安が守れないと、京都守護職の松平容保(かたもり)も危機感を抱いただろう。

 だが当時、幕府で重役を担った勝や松平春嶽(しゅんがく)と深いつながりをもつ龍馬を簡単には襲えない。浪士集団の新選組が手出しできなかったのは、そのためだったともされている。

 一方、旗本の子弟が集まる京都見廻組は襲うだけの格はあった。メンバーの自供もあり、容疑者として有力視されてはいる。だが、自分が主犯か見張りかで二転三転するなど内容に信頼性に欠けるため、真犯人とまではいたっていない。

 では誰が龍馬を。いなくなって最も利するのは、無血倒幕を考えていた龍馬に対して武力倒幕を考えていた桂小五郎を中心とする長州藩だろう。

 売り込んだ武器が使われなければ掛け金が回収できないトーマス・グラバーが両藩を裏で扇動したとの説もある。現に大戦争に発展しなかったため後年、グラバー商会は倒産する。

 さらに大政奉還の手柄を独り占めにしたい土佐・後藤象二郎の説も。

 事件後、龍馬と中岡慎太郎は霊明神社の墓地(現在の京都霊山護国神社)に埋葬される。東山の高台にある墓からは京都市街地が一望でき、150年経た今も人々の営みを静かに見守っている。

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池田屋事件 新選組、天下にその名を…敵の謀略暴いた土方歳三の拷問

 「四条河原町の桝屋の動きがどうも騒がしい」。新選組の秘密警察「監察」の島田魁(かい)、山崎烝(すすむ)らから報告を受けた局長の近藤勇と副長の土方歳三が桝屋の家宅捜索を命じたのが元治元(1864)年6月5日だった。

 「御用改めである」。武田観柳斎を筆頭に新選組が踏み込み、くまなく捜索したところ武器弾薬類や諸藩浪士関係の書類が出てきたため店の主、喜右衛門を逮捕する。

 この桝屋喜右衛門こそが反幕府の皇族、有栖川宮熾仁(たるひと)親王と長州藩の間をつないだ尊王攘夷(尊攘)派の志士、古高俊太郎だった。

 近江国古高村(現在の滋賀県守山市)で代官所の下級役人の子として生まれた古高は尊攘派の儒学者、梅田雲浜(うんぴん)に弟子入り。肥後藩出身の尊攘派で長州藩でも影響力を持つ宮部鼎蔵(ていぞう)とも親交があり、店は尊攘派の拠点になっていた。

 文久3(1863)年8月18日、会津藩、薩摩藩ら公武合体派によるクーデターで京都から追放された長州藩ら尊攘派が巻き返しを狙っている最中だっただけに、古高の逮捕は大きな打撃だったに違いない。

 古高の動きの裏に潜む事の重大性を読んだ近藤と土方が、壬生の八木邸と並ぶもうひとつの屯所・前川邸で行った取り調べはすさまじいものだった。

 2階建ての土蔵で逆さづりにし、1階で胴、2階で足をむち打つ。それでも口を割らないため、土方がくぎを足の甲から裏に打ち抜き、そこに火の付いたロウソクを立てさせる。こんな冷酷な攻めに音を上げた古高はついに恐るべき計画を自供した。

 祇園祭の風の強い日に御所に火を放ち、そのすきに公武合体派の中川宮を幽閉。将軍後見職の一橋慶喜と京都守護職の松平容保(かたもり)を殺害するとともに孝明天皇を長州へ誘拐する-というものだった。

 さらに捜査を進めたところ、古高逮捕を受けて計画の実行か中止を決める会合を三条小橋近くの池田屋か四国屋で開くことも判明した。

 上洛する将軍、徳川家茂の警護のため京へ入った近藤ら。いかつい風体から“壬生浪(みぶろう)”とさげすまれたその名を一躍天下に知らしめた池田屋事件はこうやって幕を開けたのだった。

池田屋事件 新選組・近藤、土方、沖田…宵々山の出撃 その後の名声を決定づけた「偶然」

 四条河原町に店を構えながら尊王攘夷(尊攘)派志士として活動していた古高俊太郎が、孝明天皇を略奪するクーデターの全貌を自白した元治元(1864)年6月5日、新選組は尊攘派の一掃を目指してただちに行動に出る。

 この日は祇園祭の宵々山で、日も暮れてから町はにぎわいを見せ、「コンチキチン」の祇園囃子が町のあちこちから聞こえてきたことだろう。

 動きを相手に悟られないよう、隊士らは普段と変わらない様子で三々五々、3人、5人と連れだって壬生の屯所を出る。そして町を見回った後、午後9時前には、八坂神社西楼門近くの祇園町会所に全員が集まった。

 隊内に病人などが続出したため集合した隊士は総勢30人余り。だが、会津藩もこの機を逃せば再び尊攘派の巻き返しを受けることは必至と出兵を決定。京都所司代や町奉行らとも示し合わせて動く予定だった。

 ところが、手配の遅れなどで会津らは来ない。「遅い」。しびれを切らせた新選組局長の近藤勇と副長の土方歳三は、応援を待たずに新選組単独での捜索を命じた。

 尊攘派志士の集合場所がわからず、立ち寄りそうな会津藩のリストをもとに近藤は木屋町、土方は祇園に分かれてしらみつぶしに探索した。

 この結果、午後10時過ぎに会所から北西約1キロ離れた三条小橋西詰の旅籠(はたご)屋「池田屋」と同小橋北の旅籠屋「四国屋丹虎(たんとら)」に浪士が集まっているという情報をキャッチする。

 長州藩邸に近い池田屋は同藩の定宿で、この日の会合には20人以上の志士がいて、長州の尊攘派の中でも過激派の桂小五郎も顔を出す予定だった。

 そんな中、土方隊が四国屋に向かう。そのとき池田屋へ行く近藤が連れていた隊士は5、6人とも、10人ともいわれている。

 近藤が池田屋にいる志士の数をどこまで把握していたかは不明だが、少人数ながら近所から池田屋の間取りを聞き込むなど極めて冷静だった。

 さらに表口、裏口に隊士を配置させた後、沖田総司や永倉新八、藤堂平助という“腕利き”と一緒にこう言って突入する。

 「御用改めである!!」

池田屋事件 龍馬の“同士”ら9人切り捨てる 新選組の強さ示した伝説の「急襲」を再現

 元治元(1864)年6月5日午後10時過ぎ、新選組局長の近藤勇が「主人はおるか、ご用改めである」と声を張り上げ、沖田総司らとともに三条小橋西詰の旅籠(はたご)屋「池田屋」に突入した。

 2階に約30人の尊王攘夷(尊攘)派の浪士がいたことから、池田屋主人、惣兵衛はうろたえながら階段を上がっていった。

 惣兵衛の慌てぶりに浪士の存在を確信した近藤は永倉新八、藤堂平助を1階に待機させ、沖田総司と裏階段を駆け上がる。

 そこで浪士とかち合った近藤と沖田。近藤は多勢に無勢と思ったのか、いきなり「手向かいすると切り捨てるぞ!!」と怒鳴って相手を威嚇。両者に一瞬、緊張感が走った。

 が、にらみ合いもそう長くは続かなかった。突然に切りかかった浪士を沖田がバッサリと切り捨てたところで戦闘が始まった。

 浪士の多くは池田屋から北約300メートルの長州藩邸を目指し、吹き抜けから1階の中庭に飛び降りて脱出しようと試みる。ここで「1階が主戦場」とみた近藤は2階に沖田を置き、1階へ下りる。

 1階の永倉と藤堂は土間付近で脱出を図ろうとする浪士を相手に応戦。藤堂は額を切られ、永倉も左手を負傷する。2階の沖田は無類の強さを見せたが、吐血をして倒れ、戦線を離脱してしまう。

 近藤も囲まれるなど苦戦の連続だった。だが、ここで三条小橋北詰の四国屋丹虎(たんとら)に浪士がいないことを確認した副長、土方歳三の隊が合流してきたため形勢は逆転。戦いは2時間で終了した。

 浪士集団のリーダー的存在だった肥後藩・宮部鼎蔵(ていぞう)や、勝海舟が創設した神戸海軍操練所で坂本龍馬と訓練を受けていた土佐・北添佶摩(きつま)ら計9人が死亡、4人が捕らえられたという。翌日も会津藩などによる掃討作戦でさらに多くの尊攘派を失う。

 北添が事件に加担していたため、幕府の反感を買った操練所は廃止を余儀なくされ、行く先を失った龍馬はこのあと、倒幕へ走り出す。

 一方、ダメージを受けた長州は報復のために挙兵すると、事件から1カ月半後の7月19日に蛤御門(はまぐりごもん)の変が勃発。京の街は一瞬にして灰になってしまうのだった。


(園田和洋)

MSN産経ニュースWESTからの抜粋

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以上だ税。
固論歩

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