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【関西歴史事件簿 本能寺の変】 [ぴんぼけ]

「魚が腐っているぞ!」信長の叱責で従順な光秀がキレた? 謎を呼ぶ謀反の真相 

 天下統一を目前にした織田信長が天正10(1582)年、最も信頼を寄せていた家臣の一人、明智光秀に京都・本能寺で討たれる。従順なはずの光秀がなぜ謀反を起こしたのか。今も多くの謎に包まれ、歴史最大のミステリーになっている。今回はその謎を解きほぐしつつ、5回にわたって事件の真相に迫る。

 信長が討たれた本能寺は今、京都市役所前の河原町御池近くに伽藍(がらん)を見る。だが、当時の本能寺は今の場所から西約1キロの堀川通の近くにあった。

 現在の市立堀川高校の裏手に近い住宅地の中。北端は六角通、南端は蛸薬師(たこやくし)通。東端は西洞院(にしのとういん)通、西端は油小路と、現在とほぼ同じ広さはあったようだ。

 寺といえ当時は石垣が施された幅の広い堀や土居と要塞化され、防御に優れていた。

 が、事件当日は多勢に無勢。光秀の攻撃を受けて信長が寺に火を放つと寺は丸焼けに。その後、豊臣秀吉に整地され、事件から9年後の天正19年、寺は現在地に移っている。

 旧寺域からは平成19年から翌年にかけて実施された発掘調査で、石垣や焼け土とともに「能」の異体字の銘を持つ瓦などが大量に出土したのは記憶に新しい。

 応仁の乱以来、長く続いた戦乱のため、京都は当時の首都とはいえ町は相当に荒れ果てていた。

 相国寺を周辺にした上京と四条通を中心にした下京にわずかに町並みが形成され、かつて都の中心だった二条通周辺は田園地帯と化していた。その上京と下京を結んでいた道路は室町通1本だけというお寒い風景だった。

 そんな中、それぞれに場所や時代も異なるが、室町幕府や信長らは二条通周辺に城郭・御所を築く。この伝統を引き継いだ徳川家康ら江戸幕府が築いたのが、今に残る二条城だ。

 事件時、信長の長男、信忠が宿舎とした妙覚寺は信長の本能寺とは北東約1キロの二条衣棚(ころもたな)にあった。襲撃を知り、信忠は寺を出て光秀を討とうとするが、本能寺が落ちたのを知ると二条御新造で自害する。

 事件の約2週間前の5月15日、信長の居城・安土城で、最大のライバルとみられた武田氏を天目山で滅亡させた祝勝会を開いたときのこと。

 徳川家康の接待役に選ばれた明智光秀は料理の魚が腐っていると信長に叱責されると、役目を解任されて備中(今の岡山)で毛利軍と奮戦中の秀吉軍の援軍を命じられる。

 そのうえ領地の丹波と近江を召し上げられた揚げ句に、毛利領の石見と出雲を「自分で取ってこい」と言われる始末。

 この話をそのまま受け取れば、非情な命である。いくら従順な光秀でも怒るのも当然だろう。

 越前・朝倉家や足利将軍家とのつながりが深い光秀が信長の家臣になるころ、信長に命じられた比叡山焼き打ちは信心深い光秀にとっては辛い出来事だったに違いない。

信長の油断が招いたクーデター 数時間で日本の権力構造が一変

 天正10(1582)年6月2日午前4時ごろ、中国地方の毛利軍と戦闘中の羽柴秀吉の援軍要請もあり、京都・本能寺に宿泊中の織田信長は外の騒がしい物音で目が覚めた。

 最初に異変に気付いたのは本能寺門前にいた信長の家臣、村井貞勝といわれている。貞勝も信長も最初は誰かのけんかかと思っていた。

 だが、多くの旗が寺のまわりを取り囲んでいることに気づき、近くにいた小姓の森蘭丸に「謀反? 誰のたくらみか」と聞くと、蘭丸は「旗の家紋がキキョウ。明智光秀のようです」と答える。

 蘭丸はすぐに寺を脱出することを信長に進言したものの、1万3000の明智軍に対し「多勢に無勢」を悟った信長は、「是非に及ばず」と一言。弓を持ち出した。

×  ×  ×

 本能寺の変の1カ月前の5月、かつては戦国最強とうたわれた武田軍を天目山で壊滅させ、四国の長宗我部軍、北陸の上杉軍は信長に対抗する力はなく、中国の雄・毛利軍とも優位に戦いを進めていた。

 すでに天下統一も目前というところで秀吉から援軍要請。低湿地に囲まれてなかなか落とせない備中高松城に4万の毛利輝元軍が接近しつつあるという状況に、おそらく信長は毛利壊滅のチャンスと思ったのだろう。

 信長が自ら備中へ向かうため光秀に先陣を務めるように命令する。このとき信長が本能寺に連れてきた家臣は20~30人とも160人ともいわれている。

 当然、信長本隊の警護が手薄なことは承知していた明智軍は空が白みかけたころ、寺に向けて発砲すると同時に明智光春らが四方から一斉に境内になだれ込んだ。

 弓を持って応戦した信長だったが、数本の矢を撃ったところで弓が折れる。すると今度は薙刀(なぎなた)に持ち替えて奮戦するも、左肩に銃撃を受けるなどしたため、ついに断念する。

 信長は女衆に逃げるように指示した後、奥にこもって「誰も入れさせるな」と寺に火を放つよう蘭丸に指示。自刀して果てた。

 これに対し、村井貞勝は本能寺から北約1キロ離れた妙覚寺に滞在中の織田信忠に光秀の謀反を報告。信忠は寺を出て、隣の二条御新造で光秀勢を迎え撃つことを決意する。

 だが光秀の大軍にはかなわず、城に火をつけて自刃してしまう。以降、織田家は衰退の道をたどる。

 天下統一を目前にした信長の油断が招いた光秀のクーデター。わずか数時間で日本の権力構造が一変する日本歴史上ショッキングな事件となった。

恩人のドクロで酒宴、比叡山焼き打ち…信長に「鬼」を見た光秀

 京都市北区の寺町通沿いに建つ曹洞宗寺院・天寧寺の本堂の天井裏から、明智光秀の位牌(いはい)が出てきたことが以前、話題になった。光秀の死後、数百年経た江戸時代に作られたものらしい。

 「謀反人」という世評もあるため天井裏に置かれたのだろうが、ちょうど本尊の上あたりに置いていたというから、お寺としては相当に大事にしていたのだろうと思われる。

 なぜこの寺に置かれていたのか、ということについては定説はない。天寧寺はもともと会津藩にかかわる寺で、光秀との関係は考えられない。

 だが、この寺が建つ以前は比叡山延暦寺の末寺、松陰坊があったという。延暦寺への参拝前に宿泊するような施設だったようで、今も境内から比叡山が美しく望める。特に門から見る山は絶景で、「額縁の門」の名を持つ。

 つまり、光秀の位牌は松陰坊、ひいては延暦寺と光秀の関わりの深さを物語るもので、それを寺が変わった今も守っている-ということである。

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 光秀と比叡山で思い出されるのは、元亀2(1571)年9月の比叡山の焼き打ちだろう。実行部隊として信長に従ったものの、教養が高く、信心深い光秀にとっては耐え難い行為だったかもしれない。

 このためだろうか、神仏の嫌いな信長は焼き打ちの戦後処理を光秀に任せたうえで比叡山の麓に領地を与え、光秀は延暦寺のおひざ元・坂本に城を構えることになる。

 このころから、光秀は信長の中に「鬼」を見ていたのではないか。

 その後、かつて仕えていた朝倉義景と浅井久政・長政親子の頭蓋骨に金箔(きんぱく)を張って酒宴を催し、一向一揆では信者を大量虐殺するなど、光秀にとって非情な出来事が次々起こる。

 そして、本能寺の1カ月前。武田家を滅ぼした徳川家康と酒宴を催した際、接待役を任された光秀が因縁をつけられた揚げ句、中国で毛利軍と戦闘中だった格下の羽柴秀吉の援軍を命じられる始末…。

 どこまでが事実かは不明な点はあるが、信長が光秀に仕打ちを行ったエピソードは数限りない。

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 天正10(1582)年5月27日、光秀は丹波(現在の京都府亀岡市)の亀山城から「明智越え」を経由して愛宕山を参拝する。愛宕神社の本地仏が勝軍地蔵のため、戦勝祈願に出向いた光秀は何度もくじを引いたという。

 翌日の連歌会で光秀が詠んだ句は「時は今 あめが下しる 五月かな」。

 「時」は光秀の出身の土岐氏。「あめが下しる」は「天が下知る」に置き換えることができ、天下取りを意識した句だいうのが大方の見方だ。

 6月1日夕刻、秀吉の援軍に向かうとして、1万3千の兵を率いて亀山城を出た光秀は重臣に謀反の意志を伝え、桂川を渡ったところで全軍にあの名文句「敵は本能寺にあり」と伝えたという。

 山陰街道から七条通に入った明智軍の先鋒(せんぽう)は斎藤利三(としみつ)が務め、暗がりの中で町内ごとにある柵を開かせながらスムーズに本能寺に近づいた。さらに嫡男・信忠のいる妙覚寺へと軍を進めていく。

 わずかな手勢しか率いていなかった信長・信忠親子を夜明け間近に襲った計画は信長の虚を突く、いくさ巧者の光秀らしい作戦だった。

消えた信長の遺体 光秀の捜索でも見つからず 謎呼ぶ暗殺劇

 全国統一が間近だった織田信長が絶対的に信頼を寄せていた家臣、明智光秀の襲撃を受けた本能寺の変も今でいうサラリーマンの出勤時までには片が付いたと思われ、光秀は焼け落ちた本能寺の中から信長の遺体の捜索を命じる。

 だが、探しても信長の遺体は見つからない。「もしかして信長は逃げ出したのか…」。焦る光秀軍は洛中の住宅に一軒一軒入り込んで、家捜しをする慌てぶりだったという。

 実は、織田家と深い親交のある阿弥陀寺の清玉(せいぎょく)上人が、本能寺のことを聞きつけると現場に向かい、信長の遺体を持ち帰ったというのだ。

 この話は阿弥陀寺の記録に残っている。もう少し詳しく述べると、次のようになる。

 上人は20人ほどの僧を連れて本能寺と二条御新造に向かう。本能寺では表門から入ることができず裏門から入ると信長の遺体を側近が焼く場面に出くわす。そこで頼み込んで遺骨を引き取ると衣に包み、混乱に紛れて阿弥陀寺に運んだという。

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 しかし、明智軍が必死で信長の遺体を捜索している最中に清玉上人が遺骨を引き取ったというのは、どこまで信用できる話か疑問が残る。

 信長が蘭丸に命じて火を付けさせ、寺は丸焼けになっているのである。遺体も炭化していて、どの遺体が誰なのか、今のように科学捜査の技術が発達していれば可能だろうが、当時としては無理なこと。

 だが、寺町通沿いに仏閣を見せる阿弥陀寺の墓地には、「織田信長信忠討死衆墓所」として信長ほか、本能寺の変で亡くなった信長の小姓、森蘭丸らの墓も建つ。

 この点からして、事後に信長のいた本能寺と信忠のいた二条御新造に入った清玉上人らは、残骸の中に残っていた無数の正体不明の遺骨を拾い、阿弥陀寺に収容したと見る方が自然。たぶんその中に、信長や信忠の遺骨もあったようにも思える。

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 信長の正式な墓はどこか-となると、これもまた難しい。

 京都市内だけでも阿弥陀寺(上京区)のほか、信長が襲撃を受けた本能寺(中京区)は特に有名。

 信長の後継者として世間的に印象づけたい羽柴秀吉が信長の葬儀を盛大にとり行い、菩提(ぼだい)寺とした大徳寺塔頭(たっちゅう)・総見院(北区、通常非公開)には信長の正室、帰蝶(濃姫)や側室、お鍋の墓ら一族の墓が並ぶ。

 秀吉は清玉上人に信長の一周忌法要を依頼するが、政治的な宣伝に使われると読んだ上人は秀吉の依頼をはねつける。そうして建てられたのが総見院。遺灰も遺骨もない中、2体作った信長の木像うち一体を火葬にしたという。

 この後、秀吉は阿弥陀寺はこの仕返しとして、今出川大宮にあった阿弥陀寺を東約1・5キロの寺町通の現在地に縮小、移転させている。

 このほか、信忠の菩提寺の大雲院(東山区、通常非公開)▽信長の乳母の菩提寺、妙心寺塔頭・玉鳳院(右京区、通常非公開)-など。全国的にみると信長の墓は相当数にのぼり、どれが本物かはまったくの不明である。

秀吉の超人的破壊力に屈した「天王山」 無残!光秀「12日天下」の夢

 本能寺の変のとき、織田信長の同盟者、徳川家康や有力家臣たちは、どこにいて、どのような状況だったのか。

 羽柴秀吉は備中・高松城(現在の岡山市)で毛利軍と対峙(たいじ)していたのだが、信長と同盟を結んでいた徳川家康は大坂・堺で観光中だった。

 さらに織田信長の有力家臣の中、柴田勝家は越中・魚津城(富山)で上杉軍と壮絶な戦いを展開。滝川一益は上野・厩(うまや)橋(東京)で北条氏、四国の長宗我部を討つために待機中の丹羽長秀は家康の接待役を命じられ、大坂にいた。

 このようにバラバラの状態で主君の死の知らせを受けたのだが、この中で最も素早い行動をみせたのが秀吉だった。

 事件翌日の3日夜、知らせを聞いた秀吉は信長の死をまだ知らない毛利軍と和睦すると、5日に撤兵を始め、7日には姫路入り。11日には尼崎と、当時としては考えられないスピードで京へ向かった。

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 一方、光秀は事後、安土城に入ると、有力武将を身方に引き入れようと説得していくが、予想以上に難航した。

 特に期待していた娘の嫁ぎ先、細川氏のほか筒井順慶ら畿内の有力大名、5日間にわたる説得した朝廷にも支持されることなく、四面楚歌(しめんそか)のまま秀吉軍を迎えることになる。

 12日は摂津富田(せっつとんだ)まで迫った秀吉軍。2万の軍隊が1週間ほどで180キロを動いたのだ。この素早さは光秀にとっては計算外だった。

 戦いの準備が整わないうちに出陣した1万強の光秀軍は京都の入り口、天王山の麓、山崎で秀吉軍を待つことになった。

 天王山と男山に挟まれた地に宇治、木津の3川が流れる交通の要衝。摂津の有力武将を味方に付けて自軍の倍以上にふくれあがった秀吉軍と13日午後4時、ついに激突した。

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 初めこそ斎藤利三らの奮戦で優位に進めたが、側面を突かれた光秀軍は総崩れとなる。日没が幸いして光秀は近くの勝龍寺城まで退却したが、兵は相次ぐ脱走で700まで減少する。

 ここで討ち死にも考えた光秀だったが、「坂本などに合わせて5千の兵が健在です。再起を」という家臣の進言もあり翻意。居城の近江・坂本城に一旦戻り、兵を立て直すことを決意する。

 少ない手勢とともに闇に紛れて勝龍寺城を脱出した光秀は雨の中、30キロほど進んだだろうか。小栗栖(おぐりす)(京都市山科区)の本経寺の裏の竹薮にさしかかった所で落人狩りに遭い、竹槍で脇腹を突かれる。

 光秀はそこで絶命したとも、家臣の介錯で自刀したとも伝えられる。本能寺の変からわずか12日のことだった。光秀の首は、粟田口(あわたぐち)(京都市東山区)に埋められたとされ、知恩院の近くに「首塚」とされる五重の石塔が残る。

(園田和洋)


MSN産経ニュースWESTからの抜粋

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だから、大尉ーっ!長文禁止ーっ!

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以上だ税。
固論歩

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