【官兵衛に見るサブリーダー論】 [ぴんぼけ]
母を失い、ガムシャラに学んだ「兵法」が官兵衛を開花させた…「謀りごとは密に」「戦は楽に勝て」の真意は
群雄割拠の戦国時代を制した豊臣秀吉の軍師、黒田官兵衛はありとあらゆる兵法を駆使して連戦連勝を呼び、史上最高の戦略家と評される。それにもかかわらず、官兵衛自身は天下人として立つことはせずに、常にサブリーダーに徹する。なぜそこまでナンバー2にこだわり続けたのか-。大河ドラマの進行に沿いつつ、官兵衛の生涯を追うことにした。(園田和洋)
母の死と兵法
天文15(1546)年11月に姫路城内に生まれた官兵衛だが、もともと黒田家の出身は滋賀とも、兵庫ともいわれている。
そして岡山から姫路に出た官兵衛の祖父、重隆が目薬の製造、販売で蓄えた財で始めた低利の金融が評判となり、黒田家に多くの人が集まるようになったという。
そんな黒田家の財と人に目を付けた御着(ごちゃく)城主、小寺政職(まさもと)に、重隆とその子、つまり官兵衛の父・職隆(もとたか)がスカウトされる。誰からも慕われる職隆の仕事ぶりに政職の信頼も次第にあつくなるなど、黒田家は徐々に力を伸ばしていく。
官兵衛はそんな父と文学を愛する教養豊かな母、さらにおおらかな祖父・重隆の間ですくすくと成長していくのだが、14歳のとき母が病で亡くなってしまう。
相当なショックだったのだろう。以来、部屋に閉じこもり、「源氏物語」など文学を読みあさるようになった。
そんなとき、官兵衛の幼いときからの教育係だった浄土宗の僧、円満に「物語にうつつを抜かしているようなときではない。今の立場を考えなさい」と戒められ、兵法に目を向けるようになっていく…。
実戦に生かす
大河ドラマ「軍師 官兵衛」の初回に、こんな場面があった。
小寺氏と敵対する赤松氏と、官兵衛の父、職隆が通じている噂が流れると、領内の広峰明神がなにものかに襲撃される事件が発生する。このとき噂を信じた政職らの疑いの目は職隆に向けられた。
だが、被害を心配して現場に駆けつけた万吉(のちの官兵衛)が近くの山林で野武士集団を指図する頬に傷のある1人の武士の姿を目撃する。
犯人だと直感し、報告のため急いで父のいる屋敷に戻る。ところが屋敷で、さきほどの犯人に出くわしてしまう。小寺家の家老、石川源吾が父の様子を見に訪ねてきたが、付き添ってきた石川の家来がそうだったのだ。
石川の後ろで話に聞き入る犯人。ビックリした万吉は平静を装いその場を去ると、2人が帰ったところで現場で見たことをすべて父に話した。
「なぜ、あのときに言わなかったのだ」と職隆が強く問うと、万吉は「あの場で言えば2人とも切られていた」と説明する。
さらに兵法書「三略」からの一節「謀(はかりごと)は密なるをもってよしとす」を引用し、職隆を納得させるのだった。犯人は切り殺され、石川は赤松のもとへ走る。
2回目の放送でも、元服した官兵衛が初陣(ういじん)で攻めと撤退を繰り返す敵の動きをの兵法書「孫子(そんし)」に書かれた陽動作戦と見抜く場面が描かれていた。
まさに、学習したことが実戦に生かされた瞬間だった。
兵法の行方
戦国時代、鉄砲などの出現で戦い方も複雑、組織化する。そんな中で、味方には損害を出さず、戦(いくさ)は楽に勝つに越したことはなかった。そのため相手の出方を読みながら組織だった作戦をリーダーに進言する。
軍師とは、兵法に気象や易学などありとあらゆる知識を加え、実戦に役立てることのできる実戦経験の豊かな人物に贈られた“称号”だった。
ただし当時は軍師ではなく、「軍配者」などと呼ばれていたという。
官兵衛が母を失うとがむしゃらに学んだという兵法は中国から伝わった。それは奈良時代の8世紀とも、平安時代中期の10世紀ごろともされ、主に7つの書物に別れていたため、「武経七書(ぶけいしちしょ)」といわれた。
最初に日本に伝えたのは貴族だが、実戦に生かされた例としては、平安後期に奥州で源義家が飛ぶ雁の列の乱れを見て「孫子」の兵法を思い出し、近くに敵の存在を悟ったという話は知られている。
以降、兵法は武家の必須科目となっていく。
さらに、京都の禅宗寺院などで学ばれるようになると、今川義元に仕えた太原(たいげん)雪斎や毛利氏のもとで活躍した安国寺恵瓊(えけい)のような軍師・交渉人としての役割を持った僧も出てきている。
大河ドラマの初回に官兵衛の父、職隆の口説き役として登場した赤松側の交渉僧、円満もたぶんそういった存在なのだろう。
ただし、官兵衛が幼い頃から教えを請うた浄土宗の僧と同じ名前なのが少し気になる。この“怪僧”はこれからもどこかで出てくるのか、興味深い。
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以上だ税。
固論歩
群雄割拠の戦国時代を制した豊臣秀吉の軍師、黒田官兵衛はありとあらゆる兵法を駆使して連戦連勝を呼び、史上最高の戦略家と評される。それにもかかわらず、官兵衛自身は天下人として立つことはせずに、常にサブリーダーに徹する。なぜそこまでナンバー2にこだわり続けたのか-。大河ドラマの進行に沿いつつ、官兵衛の生涯を追うことにした。(園田和洋)
母の死と兵法
天文15(1546)年11月に姫路城内に生まれた官兵衛だが、もともと黒田家の出身は滋賀とも、兵庫ともいわれている。
そして岡山から姫路に出た官兵衛の祖父、重隆が目薬の製造、販売で蓄えた財で始めた低利の金融が評判となり、黒田家に多くの人が集まるようになったという。
そんな黒田家の財と人に目を付けた御着(ごちゃく)城主、小寺政職(まさもと)に、重隆とその子、つまり官兵衛の父・職隆(もとたか)がスカウトされる。誰からも慕われる職隆の仕事ぶりに政職の信頼も次第にあつくなるなど、黒田家は徐々に力を伸ばしていく。
官兵衛はそんな父と文学を愛する教養豊かな母、さらにおおらかな祖父・重隆の間ですくすくと成長していくのだが、14歳のとき母が病で亡くなってしまう。
相当なショックだったのだろう。以来、部屋に閉じこもり、「源氏物語」など文学を読みあさるようになった。
そんなとき、官兵衛の幼いときからの教育係だった浄土宗の僧、円満に「物語にうつつを抜かしているようなときではない。今の立場を考えなさい」と戒められ、兵法に目を向けるようになっていく…。
実戦に生かす
大河ドラマ「軍師 官兵衛」の初回に、こんな場面があった。
小寺氏と敵対する赤松氏と、官兵衛の父、職隆が通じている噂が流れると、領内の広峰明神がなにものかに襲撃される事件が発生する。このとき噂を信じた政職らの疑いの目は職隆に向けられた。
だが、被害を心配して現場に駆けつけた万吉(のちの官兵衛)が近くの山林で野武士集団を指図する頬に傷のある1人の武士の姿を目撃する。
犯人だと直感し、報告のため急いで父のいる屋敷に戻る。ところが屋敷で、さきほどの犯人に出くわしてしまう。小寺家の家老、石川源吾が父の様子を見に訪ねてきたが、付き添ってきた石川の家来がそうだったのだ。
石川の後ろで話に聞き入る犯人。ビックリした万吉は平静を装いその場を去ると、2人が帰ったところで現場で見たことをすべて父に話した。
「なぜ、あのときに言わなかったのだ」と職隆が強く問うと、万吉は「あの場で言えば2人とも切られていた」と説明する。
さらに兵法書「三略」からの一節「謀(はかりごと)は密なるをもってよしとす」を引用し、職隆を納得させるのだった。犯人は切り殺され、石川は赤松のもとへ走る。
2回目の放送でも、元服した官兵衛が初陣(ういじん)で攻めと撤退を繰り返す敵の動きをの兵法書「孫子(そんし)」に書かれた陽動作戦と見抜く場面が描かれていた。
まさに、学習したことが実戦に生かされた瞬間だった。
兵法の行方
戦国時代、鉄砲などの出現で戦い方も複雑、組織化する。そんな中で、味方には損害を出さず、戦(いくさ)は楽に勝つに越したことはなかった。そのため相手の出方を読みながら組織だった作戦をリーダーに進言する。
軍師とは、兵法に気象や易学などありとあらゆる知識を加え、実戦に役立てることのできる実戦経験の豊かな人物に贈られた“称号”だった。
ただし当時は軍師ではなく、「軍配者」などと呼ばれていたという。
官兵衛が母を失うとがむしゃらに学んだという兵法は中国から伝わった。それは奈良時代の8世紀とも、平安時代中期の10世紀ごろともされ、主に7つの書物に別れていたため、「武経七書(ぶけいしちしょ)」といわれた。
最初に日本に伝えたのは貴族だが、実戦に生かされた例としては、平安後期に奥州で源義家が飛ぶ雁の列の乱れを見て「孫子」の兵法を思い出し、近くに敵の存在を悟ったという話は知られている。
以降、兵法は武家の必須科目となっていく。
さらに、京都の禅宗寺院などで学ばれるようになると、今川義元に仕えた太原(たいげん)雪斎や毛利氏のもとで活躍した安国寺恵瓊(えけい)のような軍師・交渉人としての役割を持った僧も出てきている。
大河ドラマの初回に官兵衛の父、職隆の口説き役として登場した赤松側の交渉僧、円満もたぶんそういった存在なのだろう。
ただし、官兵衛が幼い頃から教えを請うた浄土宗の僧と同じ名前なのが少し気になる。この“怪僧”はこれからもどこかで出てくるのか、興味深い。
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以上だ税。
固論歩
軍師官兵衛「新しき門出」 [TV・映画]
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目指せ20%!VV
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以上だ税。
固論歩