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官兵衛は天下への野心を封印した [ぴんぼけ]

疑った家康…関ヶ原の帰趨をみて官兵衛は天下への野心を封印した

「石垣原の合戦」で如水が構えた本陣跡=大分県別府市

「石垣原の合戦」で如水が構えた本陣跡=大分県別府市

  世界有数の温泉都市・大分県別府市の市街地に、黒田如水軍と大友義統(よしむね)軍が戦った石垣原(いしがきばる)の古戦場跡が広がる。小高い実 相寺山の西側にある児童公園に黒田如水本陣跡の碑が立つ。ここから2キロほど南の大分自動車道近くの山あいに大友義統の本陣跡がある。

 慶長5(1600)年9月13日、両陣営の中間地点で激戦が展開され如水軍が勝利、同15日、義統は剃髪(ていはつ)して降伏した。奇(く)しくも美濃(岐阜県)の関ヶ原の合戦と同じ日であった。

 勢いを得た如水軍は瞬(またた)く間に、西軍に属する諸城を落として九州の北半分を席巻。11月上旬、水俣(熊本県)付近で薩摩(鹿児島県)の島津をうかがう寸前に家康の命令が届き、進撃をやめた。

 如水は、東軍と西軍の戦いは半年、一年は続くと見ていたらしい。が、皮肉にも息子・長政の調略で西軍の小早川秀秋が寝返り、一日で「関ヶ原」が終わった。

  〈家康は関ヶ原の勝利後、「代々黒田の家に対し疎略(そりゃく)有るまじき由(よし)仰(おおせ)られ、諸人の見る所にて、長政の手を御とりいただき給 う」(「黒田家譜」)。長政が後日、如水にこのことを自慢した際、如水は「家康が握った手はどちらか」と問い、「右手です」と答えると「お前の左手はその 時、何をしていたのか」と、とがめたという話がある。これは後世の創作らしい〉

 家康は恩賞の土地と官位を勧めたが、如水は「病弱」「高齢」を理由に固辞。切り取った領土を差し出し、一転、好々爺(こうこうや)の表情になって楽隠居を決め込んだ。如水の本心を疑う家康は、ほっとした。

  如水は長政にいった。「家康公、関ヶ原の一戦にもし打ち負けたまはば、天下また乱世となるべし。然らば、我まず九州を打ちしたがへ、その勢いをもって中国 を平らげて上方へ攻め上り、家康公・秀忠公を助け、逆徒を滅ぼし天下を一統して忠義を尽くさんと思ひしなり」(「黒田家譜」)と。

 しかし、家康が打ち負けた場合、忠義どころか家康は戦死、あるいは実権を失うだろう。

 小説風に言えば「そうなれば、ワシが天下人になるつもりだったわい。家康のもとに世が治まるとみえたゆえ身を引いたのじゃ」といったところか。やるときは積極果敢だが、モノがみえすぎて新たな戦乱は好まない如水だった。

  晩年の如水は茶に親しみ、和歌、連歌など風雅の世界に浸った。52万石の福岡藩初代藩主になった息子の長政が福岡城の普請(工事)を行う間、太宰府天満宮 の一隅に住み、戦火に荒廃した社殿の復興に尽力した。感謝した天満宮は、江戸末期まで正月、5、9月の20日(如水の月命日)に如水懐旧の連歌の会を開い た(「太宰府市史」、「黒田家譜」)。

 〈かつて秀吉が九州を平定した際、如水は焦土の博多の「町割り」(区画整理)を命じられた。勇壮な祇園山笠で山笠(やま)を運行する博多の町の組織「流(ながれ)」は如水に始まるといっても過言ではない〉

 如水の政治理念を紹介しよう。

 「神の罰より主君の罰おそるへし 主君の罰より臣下百姓の罰おそるへし」。神や主君は祈り謝れば許されようが、怖いのは部下や万民(国民)の罰だ。彼らの信をなくしては必ず国を失う。

 「治世に武を忘れず乱世に文を捨てざるが、もっとも肝要なるへし」。国家防衛の基本であろう。

 如水は、子供の教育の重要性も訴えた。その精神は、大正4年創立の(財)黒田奨学会に受け継がれている。すでに約千人の奨学生が巣立ち社会に貢献している。

 忘れてはならないのが、恩人への感謝。そして、旧敵を憎まず、の精神である。

 如水は、荒木村重に通じて自分を有岡城の牢屋に閉じこめた旧主、小寺政職(まさもと)の子が生活に窮した際、秀吉の許可を得て家が続くよう助けている。貝原益軒は「誠(まこと)に恩を以て仇(あだ)を報ずとは、かかる事なるべし」と記す。

 一方、長政は信長の人質時代に命を助けてくれた竹中半兵衛の「厚志忘れがたく」、その孫の一人を「筑前に招き下し、禄をあたへ厚く寵遇(ちょうぐう)したまひける」(同)。

 慶長9(1604)年3月20日辰の刻(午前8時)、京都の藩邸で如水永眠、享年59。誕生と同じ時刻だった。

 辞世は「思ひおくことのはなくてつゐにゆく みちはまよはじ あるにまかせて」。

 功名富貴の望みなく権威にへつらわず、倹約・質素を旨(むね)として危機に備えた如水。

 墓所は福岡・崇福寺にある。

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秀吉が官兵衛に“疑念”と“恐れ”を持った「瞬間」 [ぴんぼけ]

秀吉が官兵衛に“疑念”と“恐れ”を持った「瞬間」

天王山の中腹から見た山崎の古戦場跡。新幹線や名神高速が走る=京都府大山崎町

天王山の中腹から見た山崎の古戦場跡。新幹線や名神高速が走る=京都府大山崎町

(10)ライバル半兵衛435回忌、実は「大量虐殺」説も…から続く

 軍師・黒田官兵衛が最も輝いたのはいつだったのか。いろいろな意見があるだろうが、秀吉を天下人に大きく近づけた「中国大返し」のときではないかと思う。

 播磨のあと鳥取を押さえた秀吉は天正10(1582)年5月、信長の命を受けて備中(びっちゅう)高松城(岡山市)の清水宗治(むねはる)を攻めていた。

 官兵衛も参戦、城のそばの川に長大な堤防を築いてせき止め、城を「水攻め」にする作戦を発案し、その完遂(かんすい)に全力を傾けていた。そこへ6月3日深夜、京都から急報が届いた。

  「黒田家譜」には、「京都にありし信長の臣、長谷川宋仁(そうにん)より飛脚来りて孝高(よしたか)(官兵衛)に直に対面し、昨二日京都におゐて信長公な らびに信忠卿(きょう)を明智日向守が殺し奉(たてまつ)りたる由、ひそかに申して状(密書)を捧(ささ)ぐ」とある。

 「本能寺の変」である。

 信長、享年49。官兵衛が直ちに秀吉に報告したところ、秀吉は「茫然(ぼうぜん)としてあきれ居給う」。放心して座り込んだ。

 官兵衛は「ご愁傷もっとも至極(しごく)に存じ候」と慰めたあと「さてもこの世の中は畢竟(ひっきょう)、貴公(きこう)天下の権柄(けんぺい) (政治権力)を取給ふへきとこそ存じ候へ」。今やこの世の中であなたこそが天下を一手におさめる人と思うべきだ。遠回しだが「チャンス到来だ」と言った。

 〈小説家たちは、これでは面白くないと思ったのか、官兵衛はにっこり秀吉のひざをたたき「ご運の開けさせ給うべき時がきたので御座る。よくせさせ給え」といったという江戸時代の書物「老人雑話」の話をよく引用する〉

  官兵衛は続ける。明智光秀は主人を殺した乱臣であり、天罰が下るだろう。明智を滅ぼし信長公の子息たちを立てればよい。が、子息にはその器量がなく、謀反 (むほん)に走る大名が出るだろうから「それを誅罰(ちゅうばつ)し給はば、貴公の威勢つよくなり、おのずから天下の権をつかさどり給うべし」と述べた。

 いずれにしても、信長の死を聞いてすぐに、人の心を見透かしたかのような、いわば「言わずもがな」の言葉を吐いた官兵衛への疑念や恐れを、秀吉が持ったのはこのときからだったといわれる。

 一刻も早く京都に帰らねば。官兵衛は、清水とその後ろだての毛利方との和平交渉に当たった。信長の死を知らない毛利は「備中、美作(みまさか)など数カ国を割譲。清水宗治は切腹」の条件を飲み、秀吉方と和睦の誓詞を交した。

 宗治が城の周りの湖上の舟で切腹した4日の夜、ようやく毛利も変を知った。後の祭りである。有岡城監禁からの生還で一皮むけた官兵衛と秀吉の諜報(ちょうほう)・情報戦(インテリジェンス)の勝利である。

  〈毛利方の交渉役は、安国寺(あんこくじ)恵瓊(えけい)という僧だった。外交に秀でていた。数年前、信長のことを「五年三年者(は)、持たる可く候(中 略)左(さ)候て後、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候」。信長の時代はしばらく続くだろうが、その後、仰向けに転んで滅びるだろう、と予 言した。

 さらに「藤吉郎(秀吉)、さりとてはの者にて候」と秀吉の将来性を見通している。関ヶ原の合戦で石田三成方(西軍)につき、敗戦後、徳川方によって処刑〉

 毛利両川(りょうせん)のひとり吉川元春などは、和睦は無効だとばかりに秀吉との一戦を主張した。が、思慮深い弟の小早川隆景は、和睦をした以上 これを破るのは天理に背き、神明をあざむくことになる、と反対した。相手の不幸に乗じて討てば天下の信を得られず、末代まで悪名を流すだろう。父、元就 (もとなり)には「天下を望んではならん」を戒められているではないか、と。

 毛利は京へ向かう秀吉を追討しなかった。これを恩に着た秀吉は以後、毛利と交わりを深める。

 秀吉軍は6日、備中高松城を出発した。水攻めの堰(せき)が切られ、あたりは水浸しになった。官兵衛は、撤退軍2万5千の最後尾、一番危険な「殿(しんがり)」を務めた。

  姫路に帰着したときも、官兵衛は兵を一休みさせただけで走らせ、12日夜には大阪、京都の国境にある山崎(天王山のふもと)に着いている。「速すぎる秀吉 の中国大返し」に明智軍は驚き、動揺し、その結果は歴史が示すとおりである。「明智の三日天下」であった。光秀滅ぶ、享年55。

 官兵衛は備中から撤収する際、毛利、宇喜多両家から数十本の旗を借り受け、山崎の合戦場で明智軍に向けて高く掲げ、「毛利も来たのか」と相手の戦意を奪ったという。「中国大返し」のシナリオを書いたのは、37歳の働き盛り、官兵衛と見ていい。

 

秀吉の「忌み恐れ」「妬み」察した官兵衛は隠居

黒田如水像(福岡市博物館所蔵)

黒田如水像(福岡市博物館所蔵)

 秀吉の天下が見えてきた天正17(1589)年、豊前中津(大分県)藩主になっていた44歳の官兵衛は突如、隠居を願い出た。

 「黒田家譜」によると、「私事、病者になり候間とても長生きは仕(つかまつ)るまじく候」などを理由に、息子の長政(22歳)に家督を譲って後見したいと言上した。秀吉は安楽するには若すぎるとして許さなかった。家督の譲渡は認めた。

  なぜ隠居を希望したのか。有名なエピソードがある。あるとき、秀吉が諸将と雑談中、わしが死んだら誰が天下を取ると思うか、と聞いた。誰もが、徳川家康 だ、前田利家だと言った。が、秀吉は「官兵衛」の名をあげた。官兵衛はこの話を伝え聞き、隠居を決意したという。秀吉を天下人(てんかびと)に導いた達成 感もあったのだろうか。

 秀吉は、官兵衛を使ううちに、その才能を忌(い)み恐れ始めた。秀吉の権臣たちにも官兵衛の功名英才をねたむ者が多く、官兵衛はこの雰囲気を鋭敏に察した。

 貝原益軒は、官兵衛は利欲が薄く、広い度量で物にこだわらない性格だが、隠居は「明哲にして身を保つの道なるへし」と記す。

  このシリーズでは、黒田家の発祥の地の謎巡りに始まり、そのドラマチックな足跡を見てきたが、2人が出会った天正3(1575)年~5年ごろ、秀吉から 「弟同然」といわれた時代がもっとも良好な人間関係を保っていた。天正10年の本能寺の変後の「チャンス到来」発言と「中国大返し」のころから次第におか しくなった。

 天正18年の小田原城(神奈川県)攻めでも、官兵衛は交渉能力を発揮して秀吉の天下統一に貢献した。官兵衛はこわい、が、才能は捨てがたい秀吉だった。

  待遇にも、秀吉の恐れが見て取れる。三木城陥落の天正8年に秀吉から1万石を受けた。「中国大返し」と山崎(天王山)の合戦、続いて賎ケ岳(しずがたけ) (滋賀県北部)の合戦でも功を挙げたが、4万石程度に加増されただけである。諸将は「秀吉が官兵衛を警戒しているからだ」とうわさしたという。

 四国、九州平定後の天正15(1587)年夏、中津藩主になったが12万石である。筑前・筑後三十数万石の小早川隆景などに比べても少ない禄高ながら、官兵衛が不平を言った形跡はない。

  秀吉晩年の朝鮮出兵には官兵衛は乗り気うすで、「(政策ミスで朝鮮の)人民散失し荒野と成りて五穀なし」などと批判し、また、老いた秀吉を怒らせるような 事をしている。現地で囲碁を打って石田三成の訪問を無視し、恨まれたうえ秀吉に報告された「囲碁事件」である。いたずら小僧のようだ。文禄2(1593) 年のことである。

 謹慎処分となった官兵衛は、剃髪(ていはつ)・入道し「如水円清と号す」(「黒田家譜」)。ようやく隠居できた。如水48歳。流れに任せる「水の如き」生き方である。

  5年後の慶長3年、太閤秀吉死去。享年62。以後、黒田家は5大老の一人、天下人の器量を持つ徳川家康についた。如水父子は武人である。台頭してきた官吏 (かんり)タイプの石田三成とそりが合わない。とくに長政は、少年時代に他家の人質になるという共通のつらい経験がある家康に親しみを持ったようだ。

 慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦の時、如水は中津城にいた。家康(東軍)と三成(西軍)の激突近し、の情報を瀬戸内海の3カ所に用意していた 早船で知った。インテリジェンス(諜報・情報戦)の重要性を知る如水である。このとき、黒田24騎にうたわれる母里太兵衛らが、三成に人質に取られる恐れ が出た如水と長政の内室(妻)を滞在先の大阪から船で中津に脱出させている。如水が最悪の事態を予測し、緊急のルートを備えていたという。

 長政は、家康に味方するため多くの家臣とともに出払っていた。折から大友宗麟(そうりん)の息子、義統(よしむね)がかつての領地・豊後国を取り返そうと西軍に属して蜂起する動きを見せた。如水は用意していた大量の金銀を取り出し、近在に布告して急ぎ、兵を集めた。

 9月9日、如水は中津城東方の「広野」で九千余人の兵に「義統は朝鮮の戦役で敵前逃亡し領地を召し上げられた臆病者だ。捕らえた者には、ほうびを与えよう」と大号令し、豊後(大分県東部)方面へ進撃を始めた。「広野」は「上如水」の地名で今に残る。

 如水数え55。「九州の関ヶ原」といわれる石垣原(いしがきばる)の合戦(別府市)などで電光石火の猛将ぶりを見せる。

 隠居の身ながら最後の輝きを放つ時が来た。

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