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軍師官兵衛の第25話は16.4% [TV・映画]

軍師官兵衛の第25話の平均視聴率は16.4%

6月22日に放送された岡田准一主演のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の第25話の平均視聴率は16.4%(ビデオリサーチ調べ 関東地区)を記録した。前回より1.1%の下落。このドラマは、豊臣秀吉の軍師として戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した黒田官兵衛の人生を描く。出演者は岡田准一、中谷美紀、谷原章介、松坂桃李、竜雷太、柴田恭兵、濱田岳、速水もこみち、高橋一生、塚本高史、永井大、塩見三省、片岡鶴太郎、高岡早紀、江口洋介、内田有紀、竹中直人、黒木瞳、田中哲司、桐谷美玲、田中圭、ピエール瀧、春風亭小朝 他。脚本は前川洋一。軍師官兵衛の第25話はNHKにて20:00-20:45に放送された。⇒ランキングへ

*第1話 18.9% *第2話 16.9% *第3話 18.0% *第4話 16.5%
*第5話 16.0% *第6話 15.0% *第7話 15.2% *第8話 16.1%
*第9話 15.4% 第10話 15.7% 第11話 15.8% 第12話 15.8%
第13話 12.9% 第14話 14.9% 第15話 14.9% 第16話 16.2%
第17話 15.6% 第18話 12.3% 第19話 13.7% 第20話 15.0%
第21話 14.8% 第22話 16.6% 第23話 16.0% 第24話 17.5%
第25話 16.4%

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失速。

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壇蜜を姫に。Orz

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本能寺の変 [ぴんぼけ]

【本能寺の変】
謎に迫る新史料 光秀、四国攻め回避で決起か 林原美術館が明らかに

2014.6.23 21:24
本能寺跡を示す石碑=23日午後、京都市中京区(恵守乾撮影)

本能寺跡を示す石碑=23日午後、京都市中京区(恵守乾撮影)

 明智光秀が主君の織田信長を討った「本能寺の変」について、林原美術館(岡山市北区)が所蔵する「石谷家(いしがいけ)文書」に土佐の長宗我部元 親(ちょうそかべもとちか)が光秀の腹心に宛てて四国攻めに苦悩する書状があったことが23日、明らかになった。変の要因には諸説あるが、長宗我部との関 係を重んじた光秀が四国攻めを回避するため決起した可能性を示す史料として大きな論議を呼びそうだ。

 石谷家文書は、美濃国(岐阜県)の武 将・石谷光政・頼辰(よりとき)父子の書状などで構成され、天正年間を中心とした3巻47通。同美術館と岡山県立博物館(岡山市北区)の共同研究で、本能 寺の変直前の天正10(1582)年5月21日付で元親が光秀の側近、斎藤利三(としみつ)に宛てた書状が見つかった。

 当時の元親は四国統一の途上。ところが大坂本願寺との和睦が成立したことなどから信長は当初の友好関係を転換し、長宗我部側に土佐以外の占領地からの撤退を要求していた。

 今回発見されたうち、6月2日の本能寺の変の約5カ月前にあたる1月11日付書状では、利三が元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、光秀も努力している」と助言。

 これに対し元親は5月21日付で「阿波国中心部の諸城からは退いたことを信長殿に伝えてほしい」と返答。信長の命に従うことで激突を避けようとしていたことが初めて分かった。

 光秀は信長から元親との取次(交渉役)を任されており、利三は石谷頼辰の実弟で、頼辰の妹は元親に嫁ぐなど、明智と長宗我部は深い関係にあった。

 本能寺の変の要因については、光秀が天下取りを目指した「野望説」をはじめ「怨(えん)恨(こん)説」などがあり、定説がない。今回の発見は、光秀が信長の四国攻めを回避しようとしたとする「四国説」を補強するものといえ、今後の論争に大きく影響を与えそうだ。

 同博物館の内池英樹学芸課主幹は「この発見で50点程度だった四国説が80点までになり、他説に比べ一歩抜きんでた」と話す。

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 書状などは、7月19日から同美術館で公開され、その後は高知県立歴史民俗資料館、岡山県立博物館などでも展示される。

 本能寺の変 天正10(1582)年6月2日早朝、明智光秀が織田信長を京都の宿所・本能寺に攻め、自害させた事件。信長はわずかの護衛しか従えておらず、近くの妙覚寺にいた嫡男の信忠も自害した。しかし光秀はその後、孤立し、後継者として羽柴秀吉が台頭した。

 


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