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岡田官兵衛 2週間動かず [TV・映画]

岡田官兵衛 2週間動かず  「マジで汚い」牢で待望幽閉シーン

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で主人公が幽閉される土牢のセット
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で主人公が幽閉される土牢のセット Photo By スポニチ

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」(日曜後8・00)で、岡田准一(33)が大河史上初めて“動かない主人公”になる。25日と6月1日の2週にわたっ て、身動きできない狭い土牢(つちろう)に幽閉される。「予想以上に汚いセットで、とにかくつらいというシーンを撮り続けました」と物語前半の見せ場について語った。

 2週にわたって描かれるのは、主人公・官兵衛の人生最大の苦難。有岡城に1年間幽閉される前半の見どころで、爽やかで真っすぐな性格だった官兵衛がシビアな軍師へと変わっていく物語のターニングポイントとなる。

 もともと歴史が好きな岡田は「官兵衛を演じると聞いてから、幽閉のシーンが楽しみでした。やっと来たねと言いながら牢に入りました」と気合十分で収録に臨んだ。

 史実の土牢の大きさは不明だが、「牢が狭すぎて官兵衛が足を痛めた」などの話を基に高さ1・35メートル、奥行き1メートル、幅1・35メートルの牢をスタジオに用意。官兵衛自身の排泄(はいせつ)物や、雨水が浮いているとして、内部をぬかるんだ状態で完成させた。

 岡田は「マジで汚いなあと思ったけど、汚さがうれしかった」と試練を再現したセットに身を置き、収録以外では夕食を抜くダイエットを続けながら役へのリアリティーに迫った。

  1963年の「花の生涯」から続く大河ドラマで、ここまで主人公が動かないのは初めて。過去に病床のシーンはあったが、元気なのに動けない、動かないシー ンはない。制作統括の中村高志チーフプロデューサーは「主人公がじっとしているだけなので、さらっと描くことも考えたが、官兵衛の人生にとって大きな影響 のある場面。じっくりと描くことにしました」と説明している。

 牢の外のシーンとしては味方が救出の機会をうかがったり、官兵衛の家族の 動向が描かれる。一方で、動けない官兵衛は「絶望を表現したり、よく気絶したり、土のついたおにぎりを食べたりしていました」と岡田。「撮影後は風邪をひ きました。肉体的にも精神的にもきつかったんでしょうね」と狭い空間への熱演を振り返り、「ここから軍師として始まると思っていただきたいです」と熱い口 調で語った。

 ▽黒田官兵衛と幽閉 1578年(天正6)、織田信長の有力な家臣だった荒木村重が反旗を翻し、官兵衛が説得に赴いたが失敗。村重が城主を務める有岡城(現在の兵庫県伊丹市)にそのまま幽閉された。翌1579年(天正7)、味方に救出されるが、狭い牢に1年間捕らえられていたため足が不自由になった。

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軍師官兵衛の第19話は13.7% [TV・映画]

軍師官兵衛の第19話の平均視聴率は13.7%

5月11日に放送された岡田准一主演のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の第19話の平均視聴率は13.7%(ビデオリサーチ調べ 関東地区)を記録した。前回より1.4%の上昇。このドラマは、豊臣秀吉の軍師として戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した黒田官兵衛の人生を描く。出演者は岡田准一、中谷美紀、谷原章介、松坂桃李、竜雷太、柴田恭兵、濱田岳、速水もこみち、高橋一生、塚本高史、永井大、塩見三省、片岡鶴太郎、高岡早紀、江口洋介、内田有紀、竹中直人、黒木瞳、田中哲司、桐谷美玲、田中圭、ピエール瀧、春風亭小朝 他。脚本は前川洋一。軍師官兵衛の第19話はNHKにて20:00-20:45に放送された。⇒ランキングへ

*第1話 18.9% *第2話 16.9% *第3話 18.0% *第4話 16.5%
*第5話 16.0% *第6話 15.0% *第7話 15.2% *第8話 16.1%
*第9話 15.4% 第10話 15.7% 第11話 15.8% 第12話 15.8%
第13話 12.9% 第14話 14.9% 第15話 14.9% 第16話 16.2%
第17話 15.6% 第18話 12.3% 第19話 13.7%

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竹中半兵衛の「胆力」 [ぴんぼけ]

あの信長を“反省”させた官兵衛の恩人・竹中半兵衛の「胆力」

2014.5.11 18:00 (1/4ページ)官兵衛
重要文化財 黒田長政像=福岡市博物館所蔵

重要文化財 黒田長政像=福岡市博物館所蔵

 人質・松寿(しょうじゅ)(後の初代福岡藩主、黒田長政)を殺せと信長から命じられたのは、長浜城(滋賀県)の留守を守っていた竹中半兵衛だった。秀吉は播州(兵庫県)三木城の別所長治(ながはる)攻めで平井山の陣中にいた。天正6(1578)年秋のことだった。

 半兵衛は驚いて信長に拝謁し、「官兵衛どのは忠義の志があつく才智ある者でもあり、強い味方を捨てて弱い敵に付くはずがありません。松寿を殺せば黒田家の恨みを買い、中国地方攻略にも支障が生じるでしょう」といさめた。

 しかし、信長に聞く耳はない。有岡城(伊丹市)の荒木村重に対しては使者を出して反逆の真意をただしているが、官兵衛の行動については、裏切ったかどうか事実関係を調べた節はないようだ。信長の一代記「信長公記」にもそれらしい記述は見あたらない。

 官兵衛は信長にとって「できる男」だが、「たかが、いなか小豪族の家老」にすぎなかったのか。

  半兵衛はやむなく「人質を殺します」と言って11歳の松寿を長浜城から密かに連れ出し、約30キロ東の自分の領地である美濃国不破郡岩手(岐阜県垂井(た るい)町)に帰り、「奥菩提といふ居城に遣(つかわ)し、かくし置て、いと懇(ねんごろ)に、もてなしける」(「黒田家譜」)。

 世話係や遊び相手の小坊主が常に側にいたという。ばれれば、厳しい処罰が下されるだろう。命令に背いた半兵衛の決断で、松寿は生き延びることになる。

 竹中半兵衛は天文13(1544)年、美濃の生まれ(官兵衛より2つ上)。一見、線が細く女性のような容貌で、仕えていた斎藤家当主、龍興(たつおき)(道三の孫)やその家臣から軽侮(けいぶ)されていたという。

 有名なエピソードがある。ある日、半兵衛が龍興の居城、稲葉山城(のちの岐阜城)に登城途中、誰かに小便をかけられた上、あざけられたことがあり、さすがの半兵衛も堪忍袋の緒が切れた。

 計略を持って家臣ら18人で乗り込み、あっという間に稲葉山城を奪った。危機管理にうとい龍興は、命からがら城から逃亡した。

 半兵衛はのちに城を斎藤家に返還し、責任を取る形で岩手の居城に引き上げた。やるときは、やる。知力と決断と行動、出処進退の見事な男ぶりである。

 この半兵衛がどうして信長、秀吉配下の軍師になったのかは諸説があり、よく分からない。ともあれ、秀吉は天下の軍師2人を手にしたのだから幸運だった。

 半兵衛は当時、不治の病と言われた労咳(ろうがい)(肺結核)にかかっていた。遠からず自分は死ぬが、盟友・官兵衛の忠節を信じ、松寿を守ろうと決心したのだろう。

 秀吉はかつて、信長の命令に反して勝手に北陸の戦線から長浜城に帰ったことがあったが、半兵衛の進言があったという。信長への反抗は初めてではなかった。

 翌天正7年6月13日、三木城攻めの前線、平井山の陣営(付城(つけじろ))に戻っていた半兵衛が死去した。享年36。貝原益軒は「此の人知略武勇あり」「秀吉、甚だ其の死をいたみ惜しみ給ふ」と記す。

 伊丹・有岡城の牢屋に監禁中の官兵衛はその死をしらない。さらにその半年後の11月、有岡城は信長軍の攻撃に耐えられずに陥落した。荒木は妻子、一族、部下を捨てて姿を消した。

 1年間の過酷な幽閉で「力よはり足すくみて行歩かなはず」の半死状態の官兵衛は、子飼いの家臣、栗山善助らに背負われて救出された。栗山は、黒田家草創期を支えたいわゆる「黒田24騎」の一人(後に筆頭家老)である。

 信長は、節義を貫いた官兵衛の生還を喜び、誤って松寿を殺させたことを悔いて「官兵衛に対面すへき面目なし」とうなだれた。が、その松寿が半兵衛の居城にかくまわれていたことを知り、大いに安堵し「御感悦浅からざりしと也」。勝手なものだ。

 ほめようにも、謝ろうにも半兵衛はすでに泉下の人である。驕慢(きょうまん)な信長が生涯で一度だけ、「反省」したのである。

 秀吉も、一命をかえりみず敵城に乗り込んだあげく、戸板に乗せられ髪の抜けた姿になった官兵衛の手を取り、「誠に忠義の至り也」と涙を流したという。

 官兵衛は、我が身や松寿の運命のあやに驚き、安堵し、半兵衛の死に涙し、その厚情に感謝した。松寿も同じ思いだった。

 益軒は、「虎口の難を逃れて、父子ともに運を開き給ふ」と記している。

(元産経新聞九州総局長・木戸照博)

 =この記事は平成23年10月から24年1月まで産経新聞九州・山口版に「偉人探訪 黒田官兵衛(如水)」として連載したものを加筆・再録したものです。肩書などは当時。

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