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楽トフェリン [購入品]

雷音さんの楽トフェリンを6か月試したが、

ラクトフェリン.jpg

体重が6Kg増えてしまったので、

定期購入を解約した。

やはりサプリだけで何とか仕様とは

虫が良すぎるな。

それに、5.5K/月は結構痛いし。

また落天星系内のふくやにするか。


懲りない奴です税。

しかし80kgはやべーなぁ。

捻挫のせいもあるけど・・・。

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以上だ税。

固論歩

 


軍師官兵衛の第20話は15.0% [TV・映画]

軍師官兵衛の第20話の平均視聴率は15.0%

5月18日に放送された岡田准一主演のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の第20話の平均視聴率は15.0%(ビデオリサーチ調べ 関東地区)を記録した。前回より1.3%の上昇。このドラマは、豊臣秀吉の軍師として戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した黒田官兵衛の人生を描く。出演者は岡田准一、中谷美紀、谷原章介、松坂桃李、竜雷太、柴田恭兵、濱田岳、速水もこみち、高橋一生、塚本高史、永井大、塩見三省、片岡鶴太郎、高岡早紀、江口洋介、内田有紀、竹中直人、黒木瞳、田中哲司、桐谷美玲、田中圭、ピエール瀧、春風亭小朝 他。脚本は前川洋一。軍師官兵衛の第20話はNHKにて20:00-20:45に放送された。⇒ランキングへ

*第1話 18.9% *第2話 16.9% *第3話 18.0% *第4話 16.5%
*第5話 16.0% *第6話 15.0% *第7話 15.2% *第8話 16.1%
*第9話 15.4% 第10話 15.7% 第11話 15.8% 第12話 15.8%
第13話 12.9% 第14話 14.9% 第15話 14.9% 第16話 16.2%
第17話 15.6% 第18話 12.3% 第19話 13.7% 第20話 15.0%

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ちょっと回復・・・。

悲惨なシーンが多かったが。

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dan-16.jpg

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以上だ税。

固論歩

 


【官兵衛の実像(10)】 [ぴんぼけ]

信長の死を聞き、謀反者「村重」は身をよじるようにして泣いた…戦国の過酷な人生、三木城陥落後「大量虐殺」説も

 兵庫県三木市平井の竹中半兵衛の墓で毎年7月13日、「軍師竹中半兵衛重治(しげはる)公を偲ぶ法要」が地元の人たちの手で営まれている。農繁期を避け、命日からひと月遅れで行われる習慣になっている。(平成26年夏で、435回忌となる)。

 墓は、三木合戦の最中に半兵衛が病死した陣営から1キロほど離れた田園にある。

 前平井区長の栗西浩行さんによると、明治のころ、岐阜の竹中家の人が平井を訪れて何がしかの供養料を責任者に預け、供養を頼んで帰ったそうである。

  平井の人々は以後、律儀に法要を続けてきた。結婚して平井に住む栗西さんは、黒田官兵衛が晩年の一時期を過ごした福岡県太宰府市の生まれだそうで、「(福 岡出身者として)竹中半兵衛さんのお墓のお世話をさせてもらい、不思議な縁を感じているのです」と話してくれたことがある。

 この法要にはここ数年、半兵衛の生誕地である岐阜県大野町や菩提寺のある同県垂井町の町民らがバスで大勢参列し、墓前に線香をあげ、手を合わせる。三木市民との交流も深まっている。半兵衛と官兵衛の縁が、400年後の現代人にも幸福をもたらしてるのである。

 〈竹中家の菩提寺は岐阜県垂井町岩手の禅幢寺(ぜんどうじ)で、奥まったところに半兵衛の墓がある。死の8年後に、三木からここに改葬された。半 兵衛の判断によって松寿(後の黒田長政)がかくまわれ、命を長らえた菩提山城のふもとにある寺である。近くの竹中氏陣屋跡には、床几に座る半兵衛像があ る〉

 天正8(1580)年1月、三木城が陥落した。官兵衛 は伊丹の有岡城から救出後、有馬温泉で休養し三木の陣に急ぎ戻っている。中国攻めの計画を混乱させた責任感から、三木合戦を自らも参画して収束させたかっ た。官兵衛を荒木村重に売った小寺政職(まさもと)は御着城から姿を消し、官兵衛は小寺姓を捨てて黒田姓に戻っている。

 別所長治(ながはる)は、自分と一族の責任者の切腹と引き換えに将兵たちを助命してほしいと連絡してきた(「信長公記」正月15日の条)。「三木の干し殺し」といわれた籠城戦は終わる。少しでも人命を助けたいという官兵衛の意向が伝わったのであろう。

 別所方はかなりの人命が合戦や飢えで失われたが、同17日の長治らの死によって残りの多くの命が救われた。秀吉の事績を記した「播州御征伐之事」同日の条に、約束通り士卒は皆、助命されたとあり、「信長公記」にも同様の記述がある。これが「通説」だ。

  しかし、小林基伸・大手前大学教授(日本中世史)が最近、長治らの自害後に大量殺戮(さつりく)があったのではないかと、新説を唱えている。三木市教委 「三木城跡及び付城跡群総合調査報告書」にある小林教授の研究「三木合戦の経緯」で示されるのが、天正8年正月20日、宇喜多直家が秀吉の家臣から受けた 報告に関する書状である。

 そこには、「切腹した者以外を一所に追い寄せ、番(見張り)を付けて悉(ことごと)く殺したと聞いている」という意味の記述がある。

 また、秀吉自身も四国の長宗我部元親(もとちか)にあてた手紙(6月19日)に、「三木正月十七日に悉く首を刎ね」と書き、さらに、信長と敵対してきた本願寺の顕如が「抵抗を続ければ有岡城や三木城の結末と同じことになる」と懸念する書状を残していることを挙げる。

 有岡城では、荒木村重が見捨てた一族郎党六百数十人が、信長によって無惨に処刑されている(「信長公記」やルイス・フロイス「日本史」に詳しい)。

 小林教授は「顕如は三木城を有岡城と同列に認識している。三木城でも大量殺戮があった可能性が高い」と推測する。

 「今はただ恨みもあらじもろ人の命にかはるわが身と思へば」

 長治の辞世だが、自分の死が無駄に終わったとしたら浮かばれない。さらなる論議を待ちたい。

 荒木は自らを「道糞(どうふん)」と自嘲し放浪した。その後、秀吉のお伽(とぎ)衆(話し相手)になり、茶人「道薫(どうくん)」と改名したという。

 江戸幕府編纂(へんさん)の「寛永諸家系図伝」を読むと、天正10年、本能寺の変で信長が殺されたことを聞いたとき、「村重はなはだ哭踊(こくよう)しぬ」とある。身をよじるようにして泣いた。

 作家の遠藤周作は小説「反逆」のあとがき「取材の滴」で、村重は自分の運命を一変させた信長の死を悼んだのでもなく、喜んだのでもなく、「過去のすべてがこみあげ」「自分の人生にたいして泣いたのである」と書いている。

 官兵衛が生きた戦国の世は、過酷な人生が無数にあった。

(元産経新聞九州総局長・木戸照博)

 =この記事は平成23年10月から24年1月まで産経新聞九州・山口版に「偉人探訪 黒田官兵衛(如水)」として連載したものを加筆・再録したものです。肩書などは当時

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以上だ税。

固論歩

 


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