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お中元 [ぴんぼけ]

5523で春夏のイベントである

お客様商品特別セールで、

お客様にお中元、お歳暮を贈る

キャンペーンのノルマがある。

今年も例によって、弟のY中佐と、

父Y総帥宛にバウムクーヘンを

発注した。

バウム.jpg

例年、お菓子・スィーツから選択し、

贈ることにしている。

Y総帥は固論歩艦に転送して来たので、

自動的に私も食す事になる。

つまりは自爆である。

CIMG0905.JPG

俺にもくれーっ。

3.5Kgに太ったからやらない!

わかった、やるよ。

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以上だ税。

固論歩

 


【官兵衛の実像(11)】 [ぴんぼけ]

秀吉が官兵衛に“疑念”と“恐れ”を持った「瞬間」

 軍師・黒田官兵衛が最も輝いたのはいつだったのか。いろいろな意見があるだろうが、秀吉を天下人に大きく近づけた「中国大返し」のときではないかと思う。

 播磨のあと鳥取を押さえた秀吉は天正10(1582)年5月、信長の命を受けて備中(びっちゅう)高松城(岡山市)の清水宗治(むねはる)を攻めていた。

 官兵衛も参戦、城のそばの川に長大な堤防を築いてせき止め、城を「水攻め」にする作戦を発案し、その完遂(かんすい)に全力を傾けていた。そこへ6月3日深夜、京都から急報が届いた。

  「黒田家譜」には、「京都にありし信長の臣、長谷川宋仁(そうにん)より飛脚来りて孝高(よしたか)(官兵衛)に直に対面し、昨二日京都におゐて信長公な らびに信忠卿(きょう)を明智日向守が殺し奉(たてまつ)りたる由、ひそかに申して状(密書)を捧(ささ)ぐ」とある。

 「本能寺の変」である。

 信長、享年49。官兵衛が直ちに秀吉に報告したところ、秀吉は「茫然(ぼうぜん)としてあきれ居給う」。放心して座り込んだ。

 官兵衛は「ご愁傷もっとも至極(しごく)に存じ候」と慰めたあと「さてもこの世の中は畢竟(ひっきょう)、貴公(きこう)天下の権柄(けんぺい) (政治権力)を取給ふへきとこそ存じ候へ」。今やこの世の中であなたこそが天下を一手におさめる人と思うべきだ。遠回しだが「チャンス到来だ」と言った。

 〈小説家たちは、これでは面白くないと思ったのか、官兵衛はにっこり秀吉のひざをたたき「ご運の開けさせ給うべき時がきたので御座る。よくせさせ給え」といったという江戸時代の書物「老人雑話」の話をよく引用する〉

 一刻も早く京都に帰らねば。官兵衛は、清水とその後ろだての毛利方との和平交渉に当たった。信長の死を知らない毛利は「備中、美作(みまさか)など数カ国を割譲。清水宗治は切腹」の条件を飲み、秀吉方と和睦の誓詞を交した。

 宗治が城の周りの湖上の舟で切腹した4日の夜、ようやく毛利も変を知った。後の祭りである。有岡城監禁からの生還で一皮むけた官兵衛と秀吉の諜報(ちょうほう)・情報戦(インテリジェンス)の勝利である。

  〈毛利方の交渉役は、安国寺(あんこくじ)恵瓊(えけい)という僧だった。外交に秀でていた。数年前、信長のことを「五年三年者(は)、持たる可く候(中 略)左(さ)候て後、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候」。信長の時代はしばらく続くだろうが、その後、仰向けに転んで滅びるだろう、と予 言した。

 さらに「藤吉郎(秀吉)、さりとてはの者にて候」と秀吉の将来性を見通している。関ヶ原の合戦で石田三成方(西軍)につき、敗戦後、徳川方によって処刑〉

  官兵衛は続ける。明智光秀は主人を殺した乱臣であり、天罰が下るだろう。明智を滅ぼし信長公の子息たちを立てればよい。が、子息にはその器量がなく、謀反 (むほん)に走る大名が出るだろうから「それを誅罰(ちゅうばつ)し給はば、貴公の威勢つよくなり、おのずから天下の権をつかさどり給うべし」と述べた。

 いずれにしても、信長の死を聞いてすぐに、人の心を見透かしたかのような、いわば「言わずもがな」の言葉を吐いた官兵衛への疑念や恐れを、秀吉が持ったのはこのときからだったといわれる。

 毛利両川(りょうせん)のひとり吉川元春などは、和睦は無効だとばかりに秀吉との一戦を主張した。が、思慮深い弟の小早川隆景は、和睦をした以上 これを破るのは天理に背き、神明をあざむくことになる、と反対した。相手の不幸に乗じて討てば天下の信を得られず、末代まで悪名を流すだろう。父、元就 (もとなり)には「天下を望んではならん」を戒められているではないか、と。

 毛利は京へ向かう秀吉を追討しなかった。これを恩に着た秀吉は以後、毛利と交わりを深める。

 秀吉軍は6日、備中高松城を出発した。水攻めの堰(せき)が切られ、あたりは水浸しになった。官兵衛は、撤退軍2万5千の最後尾、一番危険な「殿(しんがり)」を務めた。

  姫路に帰着したときも、官兵衛は兵を一休みさせただけで走らせ、12日夜には大阪、京都の国境にある山崎(天王山のふもと)に着いている。「速すぎる秀吉 の中国大返し」に明智軍は驚き、動揺し、その結果は歴史が示すとおりである。「明智の三日天下」であった。光秀滅ぶ、享年55。

 官兵衛は備中から撤収する際、毛利、宇喜多両家から数十本の旗を借り受け、山崎の合戦場で明智軍に向けて高く掲げ、「毛利も来たのか」と相手の戦意を奪ったという。「中国大返し」のシナリオを書いたのは、37歳の働き盛り、官兵衛と見ていい。

(元産経新聞九州総局長・木戸照博)

 =この記事は平成23年10月から24年1月まで産経新聞九州・山口版に「偉人探訪 黒田官兵衛(如水)」として連載したものを加筆・再録したものです。肩書などは当時。

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以上だ税。

固論歩

 

 

 

 


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